スピリチュアリズム
「霊性とは」 資料
いったい霊性の向上はどうすれば得られるのでしょう
安逸をむさぼっていて得られるでしょうか。
楽でないからこそ価値があるのです。
もし楽に得られるのであったら価値はありません。
身についてしまえば楽に思えるでしょう。
身につくまでは楽ではなかったのです。
(1巻 p19)


霊的実在を信じた時、あなたに霊的な備えが出来たことになります。
すなわち一種の悟りを開きます。
大勢の人が真の実在であり全ての根源であるところの霊性に全く気づかぬまま生きております。
こうして生きているのは霊的存在だからこそであること、それが肉体を道具として生きているのだということが理解できないのです。
人間には霊がある、あるいは魂があると信じている人でも、実在は肉体があって霊はその付属物であるかのように理解している人がいます。
本当は霊が主体であり肉体が従属物なのです。
つまり真のあなたは霊なのです。
生命そのものであり、神性を有し、永遠なる存在なのです。
肉体は霊がその機能を行使できるように出来あがっております。
その形体としての存在はほんの一時的なものです。
用事が済めば崩壊してしまいます。
が、その誕生の時に宿った霊、これが大事なのです。
その辺の理解ができた時こそあなたの内部の神性が目を覚ましたことになります。
肉体的束縛を突き破ったのです。
魂の芽が出はじめたのです。
ようやく暗闇の世界から光明の世界へと出て来たのです。
あとは、あなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していくことになります。
そうなった時こそ地上生活本来の目的である霊と肉との調和的生活が始まるのです。
霊性を一切行使することなく生活している人間は、あたかも目、耳、あるいは口の不自由な人のように、霊的に障害のある人と言えます。
(1巻 p33〜34)


霊性に気づいた人は真に目覚めた人です。
神性が目を覚ましたのです。
それは、その人が人生から皮相的なものではなく霊という実在と結びついた豊かさを摂取できる発達段階に到達したことの指標でもあります。
(1巻 p34)


あなた方が地上という世界に来たのは、霊的な力と物質的な力との作用と反作用の中においてこそ内部の神性が発揮されていくからです。
(1巻 p46)


光を有難いと思うのは蔭と暗闇を体験すればこそです。
晴天を有難いと思うのは嵐を体験すればこそです。
物事の成就を誇りに思えるのは困難があればこそです。
平和が有難く思えるのは闘争があればこそです。
このように人生は対照の中において悟っていくものです。
もしも辿る道が単調であれば開発は無いでしょう。
さまざまな環境の衝突の中にこそ内部の霊性が形成され成熟していくのです。
(1巻 p46)


霊性を悟ることは容易なことではありません。
もし容易であれば価値はありません。
その道に近道はありません。
王道はないのです。
各自が自分で努力し自分で苦労しなくてはなりません。
しかし同時にそれは登るにつれて喜びの増す、素晴らしい霊的冒険でもあるのです。
(1巻 p49)


解決しなければならない問題もなく、挑むべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。
悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。
(1巻 p59)


霊的知識を手にした者は挫折も失敗も神の計画の一部であることを悟らなくてはいけません。
陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、いわば硬貨の表と裏のようなものです。
表裏一体なのですから、片方は欲しいがもう一方は要らない、というわけにはいかないのです。
人間の進化のために、そうした表と裏の体験、つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があるのです。
神性の開発を促すために仕組まれた複雑で入り組んだ法則の一部、いわばワンセット(一組)なのです。
(1巻 p62)


人間にとってその条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇の体験です。
何もかもがうまくいき、鼻歌まじりののん気な暮しの連続では、神性の開発は望むべくもありません。
そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。
そうしたものを体験して初めて霊的知識を理解する素地が出来あがります。
そしていったん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮しはじめることになるのです。
そしていったん身につけたら、もう二度と失うことはありません。
(1巻 p64)


これは真理普及の仕事に携わる人にも “よくある話” なのです。
奉仕の情熱、落胆、試練、そして悟り、このパターンの繰り返しです。
これは魂が自我に目覚め、内在する神性を開発せんとして必死にあがく一種のシーソーゲームのようなものです。
神の使徒の一人ひとりが、先覚者の一人ひとりが、予言者の一人ひとりが、その他霊感鋭き男女の一人ひとりが辿った道なのです。
悟りの道にも満ち潮と引き潮にも似た盛衰があるということです。
しかし大勢の方々に申し上げたことですが、一人ひとりの人生にはあらかじめ定められた型があります。
静かに振り返ってみれば、何ものかによって一つの道に導かれていることを知るはずです。
(1巻 p70)


全ての魂がそうであるように、あなたの魂も、地上でいかなる人生を辿るかを誕生前から承知していたのです。
その人生で遭遇する困難、障害、失敗の全てがあなたの魂を目覚めさせるうえでの意味をもっているのです。
価値ある賞ほど手に入れるのが困難なのです。
容易にもらえるものはもらう価値はないことになります。
簡単に達成したものほど忘れやすいものです。
内部の神性の開発は達成困難なものの中でも最も困難なものです。
(1巻 p71)


我欲を棄て他人のために自分を犠牲にすればするほど内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就しはじめることになります。
家族的情愛や恋愛が間違っていると言っているのではありません。
外へ向けてのより広い愛の方が上だと言っているのです。
排他性の内向的愛よりも発展性の外向的愛の方が上です。
いかなる資質にも上等のものと下等のもの、明るい面と暗い面とがあるものです。
(1巻 p145)


霊性は書物からは得られません。
先生が授けるものでもありません。
自分自身の生活の中で、実際の行為によって体得しなければなりません。
それは個性の内部における神性の発芽現象なのです。
(1巻 p148)


あなた方がこうして地上に生を享けたのは、その内部の神性を少しでも多く発現させるためです。
それは永遠に終ることのない道程です。
なぜなら神性は無限に顕現するものだからです。
神性の本性として自発的に顕現を求め、それがあらゆる種類の美徳と善行、つまり親切、同情、寛容、慈愛、哀れみ、友情、情愛、無私の愛となって表現されます。
その量が多ければ多いほど、それを発現している霊は偉大であることになります。
(1巻 p154〜155)


では、いかにすればこの驚異的な潜在的神性を意識的に発現させることができるのでしょうか。
それに関して地上には各種の学説、方法、技術があります。
いずれも目指すところは同じで、脳の働きを鎮め、潜在的個性を発現させて本来の生命力との調和を促進しようというものです。
要するに物的混沌から脱け出させ、霊的静寂の中へと導くことを主眼としておりますが、私はどれといって特定の方法を説くことには賛成しかねます。
各自が自分なりの方法を自分で見出していくべきものだからです。
(1巻 p155)


霊的現象の目的はそうした個々の魂に自我への覚醒をもたらし、物的感覚を超えて自分が本来霊的存在であることを自覚させることです。
いったん霊性を悟れば、その時から神からの遺産として宿されている神性の種子が芽を出して生長を開始します。
その時こそ全大宇宙を経綸する無限の創造カのささやかな一翼を担うことになります。
(1巻 p161) 


“神とイエスと聖霊は三にして一、一にして三である” などと説くことが宗教ではありませんし、宗教的であるとも言えません。
それを口にしたからといって霊性はみじんも成長しません。
朝から晩まで讃美歌を口にしたからといって霊性が増えるわけではありません。
バイブル(キリスト教)を読んでも、タルムード(ユダヤ教)を読んでも、コーラン(イスラム教)を読んでも、バガバッド・ギーター(ヒンズー教)を読んでも、その他いかなる聖なる書と呼ばれるものを目が疲れるほど読んでも、それだけで霊性が成長するわけではありません。
“宗教的” と見なされている行事をすべて行っても、それによって一層価値ある人生へ魂を鼓舞しなければ、言いかえれば内部の霊性を少しでも多く顕現させることにならなければ、私たちが考えている意味での宗教的人間になるわけではありません。(3巻 p71)


神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。
すなわち親切、寛容、同情、奉仕の行為が自動的にそれ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義、罪悪、不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。
この法則は変えようにも変えられないのです。
みっともない執行猶予も安価な赦免もありません。
神の公正が全宇宙に行きわたっております。
霊的な小人が巨人のふりをしてもごまかせません。
死の床での悔い改めも通用しません。
(3巻 p71)


最後はかならず個人単位の問題であり、その成長度に帰着します。
開発すればするほど、進化すればするほど、それだけ内部の神性を発揮させることになり、それだけいっそう美を求めることになります。
私がいつも霊的知識のもつ道徳的ないし倫理的価値を強調するのはそのためです。
スラム街があってはならないのは、神性を宿す者がそんな不潔な環境に住まうべきではないからです。
飢餓がいけないのは、神性を宿す肉体が飢えに苦しむようであってはならないからです。
すべての悪がいけないのは、それが内部の神性の発達を妨げるからです。
真の美は物質的、精神的、そして霊的のすべての面において真の調和が行きわたることを意味します。
(3巻 p166)


葛藤や苦悩はいつになっても絶えることはありません。
もっともその意味が問題ですが…地上では人間を支配しようとする二つの力の間で絶え間ない葛藤があります。
一つは動物的先祖とでもいうべきもの、つまり身体的進化に属する獣的性質と、神性を帯びた霊、つまり無限の創造の可能性を付与してくれた神の息吹きです。
その両者のどらちが優位を占め維持するかは、地上生活での絶え間ない葛藤の中で自由意志によって選択することです。
(3巻 p181)


霊的成長は思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。
言いかえれば内部の神性が日常生活において発揮されてはじめて成長するのです。
邪な心、憎しみ、悪意、復讐心、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。
(4巻 p25)


神性を宿した種子は一人の例外もなくすべての人間に植えられております。
その小さな種子は畑に蒔かれた種子と同じく正常な生長を促す養分さえ与えれば、やがて芽を出し、花を咲かせ、そして美事な実をつけます。
その種子は神があなた方の魂に植えてくださっているのです。
が、その手入れをするのは自分自身です。
いつ花を咲かせるか、あるいは、はたして首尾よく花を咲かせるかどうかは、ひとえに各自の努力に掛かっております。
各自には自由意志があります。
もしもその種子を暗闇の中に閉じ込めて霊的成長のための光、慈善の光、善行の光を与えずにおけば、神の属性はいつになっても発揮されることはありません。
(4巻 p37)


地上は学校と同じです。
少しずつ勉強し、知識を身につけていくうちに、徐々に霊性が目覚めていきます。
すると更に次の段階の真理を理解する力がつくわけです。
それが人生の究極の目的なのです。
(4巻 p74)


私たちは罰の恐ろしさをチラつかせながら説得することはしません。
恐怖心から大人しく生きる、そんな卑屈な臆病者になってほしくはありません。
内部に宿る神性を自覚し、それを発揮することによって霊性を高め、一段と崇高な真理と叡智を身につけていただくことを目指しております。
そのためには、まず、これまでに得たものに不満を抱くようにならなければなりません。
なぜなら、今の自分に満足できず、さらに何かを求めようとするところに、より高い知識を得る可能性が生まれるものだからです。
満足する人間は進歩が停滞します。
満足できない者はさらに大きな自由へ向けて突き進むことになります。
(4巻 p101〜102)


あなた方も神性を宿しておられるのです。
ほんの小さな火花にすぎませんが、人間の一人ひとりに宿されているのです。
その火花を煽いで大きな炎とするか、それとも手入れを怠って消えてしまいそうにするか、それは各自の自由意志によってみずからが決めていくことです。
誰も代って決めることはできないからです。
各自が自分の運命の裁決者なのです。
自分の未来を自分で形成していくのです。
神性を発揮するか否かはあなた方自身が選択することです。
代って選択してあげようにも出来ないのです。
向上進化は自分が自覚しないかぎり、側から促進してあげることはできません。
(5巻 p126)


人生は一本調子ではありません。
光と蔭、晴天と嵐、喜びと悲しみ、愛と憎しみ、美と醜、善と悪の双方が揃わなくてはなりません。
人生はそうした比較対照を通じてのみ理解できるものだからです。
闘争を通して、奮闘を通して、逆境の克服を通してはじめて、神性を宿した人間の霊が芽を出し、潜在するさまざまな可能性が発揮されるのです。
そういう摂理になっているのです。私がそう定めたのではありません。
私はただそれを自ら身に修める努力をしてきて、今それを皆さんにお教えしているだけです。
(5巻 p155)


最終的にはいつの日か地上の人類も霊と霊とが自然な形で直接交信できるまでに霊性が発達します。
それを機械を使って代用させようとすることは進化の意図に反することです。
進化はあくまで霊性の発達を通して為されねばなりません。
霊格を高めることによって神性を最高に発揮するのが目的です。
(6巻 p116)


霊は物質の限界によって牛耳られてばかりはいません。
全生命の原動力であり全存在の大始源である霊は、あなたの地上生活において必要なものをすべて供給してくれます。
その地上生活の目的はきわめて簡単なことです。
死後に待ちうける次の生活に備えて、本来のあなたであるところの霊性を強固にするのです。
身支度を整えるのです。
開発するのです。
となれば、良いことも悪いことも、明るいことも暗いことも、長所も短所も、愛も憎しみも、健康も病気も、その他ありとあらゆることがあなたの霊性の成長の糧となるのです。
(6巻 p201)


人間がこの惑星に対して為しうることは、自然法則によっておのずから限界があります。
星全体をそこの生命もろともに消滅させてしまうことはできません。
しかし、そこにも自由意志の要素が絡んでおります。
つまり内部に宿る神性に目覚めるか、それともそれを無視するかです。
無視すれば霊的向上は望めません。
霊的な身仕度ができないまま私たちの世界へやってまいります。
そうしてもう一度初めからやり直さなければなりません。
(8巻 p34)


人間の本性を私が変えるわけにはまいりません。
その本性は実に可変性に富んでおります。
最高のものを志向することもできれば、哀れにもドン底まで落ち込むこともできます。
そこに地上へ再生してくる大きな目的があるのです。
内部には霊的な可能性のすべてが宿されております。
肉体は大地からもらいますが、それを動かす力は内部の霊性です。
(8巻 p40)
質問者: 真理に目覚めた者は寛大であらねばならないと思います。
S B : 寛容性は霊性の神髄です。
偏狭な信仰のあるところに霊性はありません。
質問者: 寛大であれと言うのは結構だと思うのですが、現実の世界において何に寛大であるべきかをよく見きわめる必要があると思います。
残虐行為や邪悪な行為に対してはいかなるものでも寛大であってはならないはずです。
S B : それに、悪とは何かということも見きわめる必要があります。
地上生活の究極の目的は、“死” と呼ばれている現象のあとに待ちかまえている次のステージ(生活舞台)に備えて、内部の霊性を開発することにあります。
開発するほど洞察力が深まります。
霊性が開発され進歩するにつれて、自動的に他人へ対して寛大になり憐れみを覚えるようになります。
これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。
相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の我慢です。
人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、まったくの無知から行為に出ていることがあるものです。
そこがあなたの我慢のしどころです。
しかし、その我慢は悪を放任し黙認してしまうことではありません。
それは我慢ではなく、目の前の現実に目をつむることです。
真の意味の寛大さには洞察力が伴います。
そして、いつでも援助の手を差しのべる用意ができていなければなりません。
(8巻 p126)
一点の曇りもなく霊的真理を確信できた人間は、真の自我に目覚め霊的可能性を知ることになると私たちは信じるのです。
生命は死後も途切れることなく続くことに得心がいきます。
霊的自我に目覚めたその魂にとっては、その時から本当の自己開発が始まるのです。
そして霊的知識に照らして自分の人生を規制するようになります。
自然にそうなるのです。
それによって内部の神性がますます発揮され、霊的に、そして精神的に、大きさと優雅さが増してまいります。
(8巻 p165)


人間は自分のすることに責任を取ることになっており、その行為の一つ一つが、その人の霊性に影響を及ぼします。
その際にかならず考慮されるのが動機です。
動機にやましいところがなく、どうしても殺さざるを得なかったという場合は、その行為はあなたの成長にプラスに働きます。
(8巻 p189)


あなたには無限の神性が潜在的に宿されているのです。
何かに挑戦することによってそれを引き出すことができるのです。
その時の奮闘努力が霊のはがねを鍛えるのです。
掛けがえのない絶好機です。
霊がその純金の姿をあらわし神性を発揮することになるよう、どうか今こそあなたの気骨を示してください。
(8巻 p216)


あなたの場合も、人生が暗く荒涼として、いずこへ向かうべきかも分からず、あたかも絶望の壁に四方を仕切られた思いをさせられていた時に、啓示を受けられました。
これ以上申し上げる必要はないでしょう。
愛、情愛、友情、同情、慈悲、哀れみ、寛容心、こうしたものは不滅の霊性です。
愛に死はないのです。
死は生命に対しても愛に対しても無力なのです。
いま申し上げた霊性もみな元をただせば愛の諾相なのです。
私はけっしてナゾナゾを申し上げているのではありません。
(9巻 p36)


儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。
それでもなおあなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派 “宗教的” で有りうるのです。
そういう生活でこそ内部の霊性が正しく発揮されるからです。
(9巻 p148)


こちらでは霊性がすべてを決します。
霊的自我こそすべてを律する実在なのです。
そこでは仮面も見せかけも逃げ口上もごまかしも利きません
すべてが知れてしまうのです。
(9巻 p224)


魂が真の自我に目覚めるのは太陽が光り輝いている時ではありません。
バラ色の人生の中では霊性は発揮されません。
危機、挑戦、困難、障害、妨害の中にあってこそ発揮されるのです。
それが魂に潜在する神性を自覚する唯一の触媒を提供してくれるのです。
(10巻 p19)


霊性の開発には青天よりも嵐の方がためになることがあるものです。
鋼が鍛えられるのは火の中においてこそです。
黄金が磨かれてそのまばゆいばかりの輝きを見せるようになるのは、破砕の過程を経てこそです。
人間の霊性も同じです。
何度も何度も鍛えられてはじめて、かつて発揮されたことのない、より大きな霊性が発現するのです。
(10巻 p22)


小さすぎるからということで無視されたり、見落とされたり、忘れ去られたりすることはありません。
それは大霊の一部が生きとし生けるものすべてに宿っているからです。
言いかえれば神がその霊性の一部を各自に吹き込んだからこそ存在しているのであり、その霊性が神とわれわれとを結びつけ、また、われわれお互いをつないでいるのです。
(10巻 p27)


もしも埋め合わせと懲罰がなかったら、神の公正はどうやって発揮されるのでしょう。
罪深い人間が聖者と同じ霊格を具えることがあってよいでしょうか。
もちろん、よいはずはありません。
いかなることにせよ、良いことをすればそれだけ霊性が向上し、自己中心的なことをすれば、それだけ霊性を損なうのが道理です。
(10巻 p85)


イエスの教えの肝心かなめは “愛” です。
“おのれを愛するごとく隣人を愛せよ。 汝に敵対する者にも優しくすべし” です。
愛とは摂理(神の心)の通りに行うことです。
人類の救済にとってこれ以上に必要なものがあるでしょうか。
愛は霊性の最高の表現です。
大霊から下さるものです。
それを私たちがあなた方にお届けしているのです。
(10巻 p182)


その自然法則に従って生活していれば、言いかえれば自然法則と調和していれば、あなたは天命を全うできると同時に他の生命の進化を助けることにもなります。
各自が協調的要素としての役割を果たすように宇宙の全機構ができあがっているのです。
協調とは反対に自然に逆らった行為に出る者は、その逆らった対象だけでなく自分自身に対しても酷い仕打ちをすることになります。
自然と協調する者は自然の発達を助けると同時に、自分自身の霊性の開発をも助長することになるのです。
(10巻 p202)


あなたが愛・寛容心・慈悲・哀れみ・仁といった神性を発揮すれば、その時あなたは大霊と通じ合っていることになります。
なぜなら、あなたを通じて大霊が表現されているからです。
(11巻 p95)


神は人間を霊的にご自分に似せて創造されたのです。
生命は霊であり霊は生命です。
霊的に似せて創造された以上、あなたは永遠に神とつながっており、神性を共有しているのです。
ということは必然的に人間は霊的大家族の一員であることになります。
同じ神性が宿っているからです。
ですから人間は霊的に神に似ているのであり、姿が似ているというのではありません。
(11巻 p110)


真の意味で宗教的であるということは、同胞に対してだけでなく動物に対しても思いやりの心を持つことです。
他の存在を思いやる心がないようでは霊性を欠くことになります。
(11巻 p121)


人間には神性が宿っていると同時に、動物進化の名残りとしての獣性もあります。
人間としての向上進化というのは、その獣性を抑制し神性をより多く発揮できるようになることです。
獣性が優勢になれば戦争と衝突と殺人が横行します。
神性が発揮され、お互いに援助し合うようになれば、平和と調和と豊かさが得られます。
(11巻 p185)


この事実をよく理解し実践しなくてはなりません。
人類の優越性はその内部の神性を開発し、それを愛と哀れみと思いやりの形で他の同胞のみならず、同じ地球上に住む動物に対しても発揮するようになって初めて得られるのです。
地上のいたるところで行われている無益な残虐行為と乱獲は止めないといけません。
真の平和は人類がその霊的起源と天命に恥じない行為を実践できるようになった時に訪れます。
(11巻 p204)
― end ―
2020 /9 /17
              




















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