スピリチュアリズム

スピリチュアル・カウンセラー

天枝の日誌

第20話
読書会 「霊性とは」

この日の 資料 もかなりの量になった。
配布された 資料 を作るのに、天枝は自分で線を引いた所をもう一度読み直し、必要なところを新たにパソコンで打ち直すのだから、なかなか苦労のいるところである。
しかし、こうした苦労は天枝にとってさらに理解が進むことでもある。
天 枝: 今日は「霊性」というテーマですね。
お祈りから始めましょう。
(祈始)
天にいらっしゃいます大霊様。
本日もまた、あなた様の造られた世界、摂理を学ぶ者として、共に理解を深めるために学習者が集ってまいりました。
地上で人を判断する時は、人格とか性格、言動などによりますが、私たちはそれに加えてその人の霊性によって判断したいと思っております。
人を愛する言動は何にも増して尊いものでありますし、霊的成長度のバロメーターにもなることを知りました。
たとえ言動が他の人とそぐわなくても、たとえ性格が偏っていたとしても、万物を愛する思いと行動は何にも勝るものであり、それだけが死後の世界に通用することを知りました。
大霊様、どうぞ私たちの霊性向上の基盤がこの学習を通して少しでも高まり、日常の言動の礎となっていきますように心から願う次第でございます。
本日もまた全員が集まり、誠心誠意あなた様が造られた摂理を学んでまいります。
どうぞ一人一人の魂にあなた様が直接語り掛けてくださり、霊的真理を深く理解できるようにお導きをお願いいたします。
(祈終)
では、始めていきましょう。
よろしくお願いします。
全 員: よろしくお願いします。
天 枝: 今回もかなりの量でしたが、読みこなせたでしょうか。
松 本: 前回の『神』よりは今回の『霊性』の方が理解しやすかったです。
神がすごく身近だというのは分かりましたが、今まで神道で言われてきた八百万の神々が先入観としてまだ自分の中に残っているので、それを払拭しながら理解を進めるのはとても難しかったです。
塩 谷: 俺もです。
『霊性』は自分のことなので、今までの人生とか、自分の中の感覚を探りながら読めたので分かりやすかったです。
でも『神』というのは かなり理解は進んだものの、まだ知識の中だけなので自分が理解したことが正しいのかどうかがわかるのは相当先のことだと思います。
希 和: 同じくです。
家に帰ってからもう一度資料を読み直したのですが、先入観というのは怖いなあと思いました。
私の中ではどうしても人間的な神観が根付いているので、その辺りを払拭するのはまだまだ時間がかかると思います。
といっても死ぬまでには何とかしなくてはと思いますが。
美知恵: バーチがいつも言っている 「間違った真理を払拭しなければなりません」 というのが身に沁みました。
今まで染みついていたものを他の知識に変えていくのは本当に難しいと実感しました。
神というとどうしても三位一体とか、旧約聖書の中に出てくる怒りと妬みの神という印象が強かったので。
また時々資料を読み返しながら、間違って沁みついてしまった知識を払拭して切り替えられるようにしていこうと思っています。
松 本: シルバーバーチが時々言っている 「言葉で表すのは限界がある」 を実感しました。
神という存在を言葉で表すだけでも難しいのに、体験の少ない自分が、それも霊性の低い自分が、言葉だけにせよ理解するのは難しいことだと思いました。
天 枝: そうですね。
少なくとも昔から言われてきている神様とは全く実態が違うので、知識としては理解できても、自分の中に神を感じるとか、摂理を通して神が働いているというのを理解するのは難しいかもしれません。
皆さんがいろいろ体験する中で神様を感じ取って頂けたらと思います。
では、今日の『霊性とは』を始めていきましょう。
松 本: 私からよろしいでしょうか。
9巻の36ページです。
愛、情愛、友情、同情、慈悲、哀れみ、寛容心、こうしたものは不滅の霊性です。
いきなり9巻からなんですが、これはとてもよく分かります。
周りを見ていると、愛とか情愛の格差がスゴイと思うことがあります。
自分のことを顧みずに他人の子供を何人も育て上げたり、犬とか猫にしても、人生をかけて保護活動をやっている人がいるのをテレビで見たりすると圧倒されます。
その逆に、自分の子供を虐待したり殺したりする人がいるのを知ると、胸が詰まります。
この違いが霊性の差とでも言えるんでしょうかねえ。
塩 谷: 最近、自分の子供を虐待したというニュースがよく流れますけど、自分以外の人や動物を虐待する人というのは、著しく霊性が欠如しているということなんでしょうね。
誰にでも神性が付与されているということですが、まだ目覚めていないからそういう残酷なことができてしまうのかな。
美知恵: そうなんでしょうね。
霊性は愛、情愛、友情、同情、慈悲、哀れみ、寛容心、というのは分かりましたが、自分に限って言えば、愛が深い時と浅い時、寛容心がある時とそうでもない時の差があります。
これってどう考えたらいいのでしょうか。
天 枝: どなたかうまく説明できる方いらっしゃいます?
松 本: 普通に考えたら霊性の幅、とでも言えばいいんじゃないでしょうか。
縦幅と横幅みたいな。
希 和: 他の読書会で学んだことですが、心霊状態の幅だと聞いた記憶があります。
心霊状態というのはいつも一定しているわけではなくて、地上のことに翻弄されている時は神から離れていて、シルバーバーチを読んだりお祈りしたりすると神に近くなると。
松本さんと同じで霊性の幅、ということになると思います。
使 枝: 相手のことをすごく理解できたり、何を言われても受け止めてあげられる時があるかと思えば、忙しかったり問題を抱えていたりすると寛容ではいられなくなりますからね。
美知恵: いつも寛容心がある自分でありたいと思います。
塩 谷: 1巻p 33〜34
霊性を一切行使することなく生活している人間は、あたかも目、耳、あるいは口の不自由な人のように、霊的に障害のある人と言えます。
この言葉にはドキッとしました。
以前の自分はこうだったんだなと思います。
松 本: 自分も同じです。
会社に勤めていた時はただただ忙しくて、周りの人の心にまで気を配るなんてことはこれっぽっちもなかったですから。
そう思うと、こうして学習できるのは奇跡に近いです。
1巻の46ページ
あなた方が地上という世界に来たのは、霊的な力と物質的な力との作用と反作用の中においてこそ内部の神性が発揮されていくからです。
分かるようで分からないので、何か例題を言ってもらってもいいですか。
天 枝: 霊的な力というのは心とか愛を優先する力で、物質的な力というのはこの世的な欲望であったり、霊的なことからかけ離れていること、とでもいえばいいかしら。
質的に両極端の2つの心が葛藤することで、内部の神性が発揮されていく、ということでわかるかしら。
松 本: もう少し具体的に話してもらえるともっとよくわかるのですが。
天 枝: 例えばですが、お腹がすいてパンを買ってお店の外に出たら、あきらかにお腹をすかせているホームレスの人がいたとします。
その際、何の躊躇もなくパンを差し出せる人もいれば、目に入ることもなく通り過ごす人もいます。
ところが葛藤する人もいます。
差し出したいけど周りの目が気になったり、パンなんか差し出して失礼なんじゃないか、自分が上から目線で見ているんじゃないか、って考えたりして躊躇してしまうんです。
葛藤しながらも愛を優先することができれば内部の神性が成長していきます。
成長することで葛藤が減っていくし、躊躇せずに行動することが出来るようになっていきます。
これが一つの霊的成長の段階です。
こんな例題でどうでしょうか。
松 本: そういうことですか。
よくわかりました。
そういうことって人間社会では日常茶飯事に起こっていることですね。
私は最近そういう葛藤が多いので、自分で自分に嫌気がさしていたところです。
希 和: 何かあると、その人の人格というか、霊格というか、その人の質がわかりますね。
塩 谷: 確かに・・・
1巻の46ページですが
光を有難いと思うのは蔭と暗闇を体験すればこそです。
晴天を有難いと思うのは嵐を体験すればこそです。
物事の成就を誇りに思えるのは困難があればこそです。
平和が有難く思えるのは闘争があればこそです。
このように人生は対照の中において悟っていくものです。
もしも辿る道が単調であれば開発は無いでしょう。
さまざまな環境の衝突の中にこそ内部の霊性が形成され成熟していくのです。
同じような内容が5巻の155ページにもありました。
光と蔭、晴天と嵐、喜びと悲しみ、愛と憎しみ、美と醜、善と悪の双方が揃わなくてはなりません。
人生はそうした比較対照を通じてのみ理解できるものだからです。
闘争を通して、奮闘を通して、逆境の克服を通してはじめて、神性を宿した人間の霊が芽を出し、潜在するさまざまな可能性が発揮されるのです。
そういう摂理になっているのです。
私がそう定めたのではありません。
私はただそれを自ら身に修める努力をしてきて、今それを皆さんにお教えしているだけです。
『人生は対照の中において悟っていくものです』 とあるけど、本当にその通りだなあと思います。
今の日本人は平和ボケしているとよく言われますよね。
日本にいると分からないのですが、海外に行くとスリとか置き引きとか、当たり前にいます。
僕は置き引きにあったことがあって、すごくショックでした。
内戦の収まらない国だって多いし、難民もどんどん増えてる。
そういうのを思うと日本の平和は本当に有り難い。
美知恵: 確かに・・・
近所の人ですが、トラブルメーカーがいていつも周りを困らせるんです。
それを温かく解決できる人もいて、ついその2人の言動を比較して見てしまうんですが、反面教師とお手本になる人みたいな感じで、大きな学びになってます。
希 和: パソコンでもそうですが、失敗が多いほど知識が増えますよね。
失敗とかトラブルを解決しようと躍起になって得た知識って忘れませんから。
松 本: 私が体験したことですが、社内でパワハラ事件が起きたことがありました。
パワハラを受けている人を見ていた時は可哀そうだと思いつつも、私には何もできませんでした。
パワハラを受けた人は事件が解決したことを機に退社してしまったのですが、最後に少しだけ話すことが出来たんです。
その人は、「おかげで人間がどういうものかを一気に体験させられました。 結果を見ると私の一人負けですが、すごく多くのことを学ぶことが出来たから、これはこれで良かったと思います。 自分の甘さとか弱さが浮き彫りにされたことで、自分というものが良くわかったので、これからは改善点を把握して出直しです。 そういう意味では感謝ですかね。」と笑いながら言ったんです。
普通なら恨みつらみ、愚痴なんかを言ったり、すごく落ち込んで暗くなったりするのでしょうが、その人は違ってました。
陰と暗闇を体験したからこそ得られたんだなあと、今思い出しました。
パワハラを受けることでいろいろ考え、葛藤し、苦しみ、霊性が磨かれていったんですね。

1巻59ページですが、
解決しなければならない問題もなく、挑むべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。
悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。
とありますが、『霊性』と『神性』はどう違うのでしょうか。
使 枝: 『霊性』は霊的なこと全般で、『神性』はその中でも特に『愛』に関すること、つまり神に通じることだと思います。
松 本: なるほど、そういうことですか。
分かりました。
希 和: 1巻の62ページですけど、
霊的知識を手にした者は挫折も失敗も神の計画の一部であることを悟らなくてはいけません。
陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、いわば硬貨の表と裏のようなものです。
表裏一体なのですから、片方は欲しいがもう一方は要らない、というわけにはいかないのです。
人間の進化のために、そうした表と裏の体験、つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があるのです。
神性の開発を促すために仕組まれた複雑で入り組んだ法則の一部、いわばワンセット(一組)なのです。
片方は欲しいがもう一方は要らない・・・というわけにはいかないのが摂理なのですね。
本音を言えば、私はできれば苦しみたくないし、良い方だけ欲しいと思ってしまいます。
美知恵: 理屈は分かっても、私もそう思ってしまいます。
使 枝: でも、いくつか乗り越えてみると、苦しいと思えることを乗り越えることで気付かされることあり、学ぶことあり、そしてカルマが解消されて霊性が豊かになっていくのを実感します。
すると、次に何が起こるか楽しみになりますよ。
希 和: それは使枝さんだから言えることで、私たち初心者はなかなかそうは思えないですよ。
天 枝: 同じ苦しみでも、理屈がわかっているのとそうでないのとでは乗り越える時の心構えが変わってくるように思います。
霊的真理を知らなかった時は、ただ苦しいだけで逃げ出したくなりましたから。
分かってみると、苦しいけれど楽しみというか、そんな感じになります。
美知恵: 私も早くそう言えるようになりたいです。
天 枝: 次に何か苦しいことが起きた時は、今までとはぜんぜん違う感覚だと思います。
松 本: 1巻の70ページですが
奉仕の情熱、落胆、試練、そして悟り、このパターンの繰り返しです。
天枝さんと使枝さんが言われたのは、このことなのですね。
天 枝: そうですね、じっくり思い返してみるとこのパターンになっていると思います。
松 本: 同じページに
静かに振り返ってみれば、何ものかによって一つの道に導かれていることを知るはずです。
とありますが、長く生きてくると実感します。
あれもこれも自分で選んで生きてきたと思っていたけれど、実はいつも目に見えない力に導かれていたように感じます。
天枝さんや使枝さんや皆さんとの出会いもそうですし、こうして学んでいることもそうです。
塩 谷: 確かにそうです。
天枝さんがアパートを訪ねてくれてチラシを渡してくれたんだけれど、前の自分だったらゴミ箱にポイして終わりだったのが、なぜか気になって気になって。
目に見えない力の導きですね。
天 枝: そうですね。
これこそ霊界の導きです。
守護霊とか背後霊の。
美知恵:  1巻p145
我欲を棄て、他人のために自分を犠牲にすればするほど内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就しはじめることになります。
家族的情愛や恋愛が間違っていると言っているのではありません。
外へ向けてのより広い愛の方が上だと言っているのです。
排他性の内向的愛よりも発展性の外向的愛の方が上です。
いかなる資質にも上等のものと下等のもの、明るい面と暗い面とがあるものです。
ここは腑に落ちました。
今まで恋愛は間違った愛であり、悪魔のささやきであり、心の病気だと教えられてきましたから。
どの愛がより神に近いか、ということなんですね。
天 枝: ええ、そうです。
相手を思う気持ち、大切にしたいと思う気持ちは、それが善意であれ悪意であれ、すべて愛なんです。
ただ、その愛にもランクと言うと語弊があるかもしれませんが、上等なものから下等なもの、つまり神に近い愛から神から遠い愛まであるということなんですね。
スピリチュアリズムを学んでいる人は、下等な愛ではなく、上等な愛で神と人を愛したいものです。
希 和: 何が愛かというのは難しいですよね。
いつか、「愛」 についてじっくり学びたいです。
1巻の154ページですが
あなた方がこうして地上に生を享けたのは、その内部の神性を少しでも多く発現させるためです。
とありますが、他の読書会で 地上に生を享けたのは魂を成長させるため だと教えられました。
同じことですか?
使 枝: 内部の神性が多く発現することで魂が成長します。
全く同じ意味ではないけれど、大雑把に言えば同じことだと思います。
希 和: 地上に生を受けた目的が神性の発現ということですが、そうすると神性を発現しないまま亡くなるというのはものすごいマイナスですね。
塩 谷: せっかくの宝をドブに捨てるのと同じだよな。
自分の意志1つで宝を自分のものにできるし、自分の意志1つでカルマに変えてしまうということですかねえ。
使 枝: そうだと思います。
松 本: 1巻の154ページに
神性の本性として自発的に顕現を求め、それがあらゆる種類の美徳と善行、つまり親切、同情、寛容、慈愛、哀れみ、友情、情愛、無私の愛となって表現されます。
その量が多ければ多いほど、それを発現している霊は偉大であることになります。
ここを読んで、何もできていない自分が情けなくなりました。
この読書会では自分が一番年上なのに、今まで生きてきた内容を振り返ってみて何もできていないというか、他人に対して何もしてこなかったのが悔やまれます。
とりあえず霊性が発現しただけでも良しと思わなければいけないレベルの人間なんだなあと・・・
天 枝: 他人と自分を比べることはできないので、かつての自分と今の自分を比べてください。
これも作用と反作用の表れですよね。
悔やまれることがあるのなら、こんどはそれを目標にして頑張ったらいかがでしょうか。
松 本: おっしゃる通りです。
比較対象によって悟ることができるのは、こんなところにも現れるのですね。
美知恵: 3巻の71ページですが
死の床での悔い改めも通用しません。
と書いてありますが、今までは悔い改めることによって天国に行ける、と信じてきたけど、これは正しくはないのですね。
希 和: 考えてみれば、そんな都合の良い真理なんてないですよね。
罪の意識から逃れたいからとか、地獄に行きたくないから形だけでも悔い改めるなんていうのは、すり替えというか、ずるい考え方ですよね。
もちろん それを勧めるのは宗教ですし、自分の気持ちが楽になると信じて受け入れてしまうのでしょうから。
何だか人間の弱みに付け込んでいるような教えに思えてきました。
美知恵: これはイエス様がおっしゃったのではなくて、後世の人間が考え出した教えだと思います。
結局 免罪符的な考えというか、ご都合主義というか。
真理ではないですね。
今だから分かりますけど、当時は妄信していましたからとんでもないことでした。
間違った知識を植え付けられて信じる、ということがどういうことか、あらためてわかりました。
塩 谷: 3巻の181ページですが、
地上では人間を支配しようとする二つの力の間で絶え間ない葛藤があります。
一つは動物的先祖とでもいうべきもの、つまり身体的進化に属する獣的性質と、神性を帯びた霊、つまり無限の創造の可能性を付与してくれた神の息吹きです。
その両者のどらちが優位を占め維持するかは、地上生活での絶え間ない葛藤の中で自由意志によって選択することです。
獣的性質といのは、本能ということでしょうか。
天 枝: ええ、そうですね。
塩 谷: 女性はどうかわかりませんが、言いにくいけれど・・・男の場合はちょっと辛いというか・・・
松 本: 若い頃は特に葛藤しますからねえ。
何かにつけて攻撃的であったり、優位に立ちたがったり、性的なこともきれいごとでは収まりませんから。
時と場合によるけれど、すさまじい葛藤が生じたりもします。
使 枝: 女の場合だって、少なからずそういう葛藤はあります。
人それぞれ強弱の違いはあると思いますが、霊的に成長している人とそうでない人では、葛藤の度合いが違うように思います。
霊的に成長している人の方が葛藤が強いように思います。
塩 谷: なるほどねえ。
真理を知らなければ葛藤なんてしないし、場合によっては正当化してしまいますから。
松 本: どちらにしても、人間は本能のままに生きるのではなくて、自分の理性で判断しなければいけませんな。
天枝さん、そういうことでしょ?
天 枝: ええ、そういうことですね。
中には葛藤が苦しくて、真理なんか知らなければよかった、と言った人もいましたが、そういう人こそ真理を知ってよかったと思える日が来ます。
美知恵: そういう点、女性の方が楽かも。
希 和: そうは言いきれないんじゃないかしら。
男性だって草食系の人は多いわけだし。
美知恵: そればですけど、科学者とか、文学者というか、草食系の人って頭を使う人の方が多いように思うんですけど。
使 枝: アスリートというか、肉体を使う人は本能も強いって聞いたことがあります。
美知恵: ああ、なるほど、腑に落ちました。
希 和: シルバーバーチの質疑応答の部分なんですが
3巻の200ページです。
気が合うというだけの友情、趣味が同じということから生まれる友愛から、己れを忘れて人のために尽くそうとする崇高な奉仕的精神に至るまで、愛は数多くの形態を取ります。
地上では愛Loveという言葉が誤って用いられております。
愛とは言えないものまで愛だ愛だとさかんに用いる人がいます。
ある種の本能の満足でしかないものを愛だと錯覚している人もいます。
が、私が理解しているかぎりで言えば、愛とは魂の内奥でうごめく霊性の一部で、創造主たる神とのつながりを悟った時におのずから湧き出てくる魂の欲求です。
最高の愛には一かけらの利己性もありません。
すなわち、その欲求を満たそうとする活動に何一つ自分のためにという要素がありません。
それが最高の人間的な愛です。
それが人類の啓発を志す人々、困窮する者への救済を志す人々、弱き者への扶助を願う人々、そして人生の喜びを踏みにじる既得権力との闘いを挑む人々の魂を鼓舞してきました。
愛という言葉はよく聞くのですが、具体的になると良くわからないんです。
愛って何ですか?
恋愛も入りますか?
松 本: 恋愛も愛の一部だとさっき出てきましたね。
でも、恋愛は愛とは名ばかりの心の病気だと思います。
ハシカみたいなものだというのは古来から言われていることです。
高熱が出てうなされて、ピークを過ぎると徐々に平静になっていきますから。
希 和: ということは、本当の愛ではないということなんですね。
美知恵: 本当の愛は、無償の愛というか、見返りを期待しないただ与えるだけのものだと思います。
恋愛は自分だけを見て欲しい、自分だけに優しくして欲しいみたいな。
もちろん、中には与えつくす人もいるけれど、その与えるというのは金銭であったり物であったりしますよね。
相手のために身を引くというケースは本物の愛なんじゃないかと思う時があります。
希 和: 中には死期が近づいている恋人を救うために、すべてを投げ出す人もいるじゃないですか。
そういうのも本当の愛じゃないということですか?
美知恵: うーん、そう言われると分からなくなってきました・・・
天 枝: シルバーバーチは別の個所で、恋愛も憎しみも愛だと言っています。
相対的になっていて、どこからが利他愛でどこからが利己愛かなんていう境界線はないけど、あえて言えば、利他愛寄りか利己愛寄り、ってとこでしょうか。
希 和: 憎しみも愛なんですか?
天 枝: エネルギーとしては、憎しみは無償の愛の真反対の愛です。
コインの裏と表のようなものだとシルバーバーチが言っています。
「愛」 についてはまたいずれやりましょう。
希 和: はい、ぜひ学ばせてください。
次の個所に行ってもいいですか。
4巻の25ページです。
霊的成長は思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。
言いかえれば内部の神性が日常生活において発揮されてはじめて成長するのです。
やはり日常の言動が大切ということなんですね。
方向は分かったので、こういうことを常の心に留めておいて実践していこうと思います。
天 枝: 霊的に成長するには特別なことをしなければいけないと思っている人がたくさんいます。
滝行をしたり断食をすれば、しばらくは純粋さが続くでしょうが、日常に戻ればすぐに元の自分に戻ってしまいます。
希和さんが言われたように、日常の心掛けというか、具体的な実践が一番大切だと思います。
塩 谷: 霊的に成長すると霊が見えるようになる、ということはありますか?
天 枝: 霊が見えるというのは生まれつきの本能のようなものなので、霊的に成長したからと言って見えるようになるとは限りません。
霊性ともあまり関係がありません。
中には見えるようになったという人もいますが、ほとんどの人は見えないままです。
むしろ、霊的感覚が研ぎ澄まされるというか、感じる精度がより細かくなるように思います。
塩 谷: 霊的感覚が研ぎ澄まされる?
具体的に言ってもらってもいいですか?
天 枝: これは説明が難しいです。
人によって成長する部分が違うからです。
霊的に成長するというのは、霊界のどの段階の霊と通じやすくなるか、ということでもあるんです。
霊的に成長していなければ下層の霊の影響を受けやすくなりますし、成長していれば下層の影響は受けません。
つまり、自分の成長度と同じ段階の霊の影響を受けやすくなるわけです。
その影響を与える霊が医者なら、ヒーリング能力が増すでしょうし、科学者の霊であるならそうした地上でそうした分野が大きく変化します。
芸術家もそうですし、音楽家もそうです。
塩 谷: ということは、たとえば作曲家だとしたら、霊的に成長した自分と同じぐらいの霊的レベルの作曲家からインスピレーションを得ることができる、と考えてもいいですか?
天 枝: 親和性があればですけどね。
塩 谷: 親和性?
天 枝:  霊的なことはとてもデリケートなので、色々な条件が揃った時に現象として表れるようです。
重要な一つが親和性です。
『類は友を呼ぶ』と同じで、霊的レベルが同じだからと言って何でもかんでも影響を受けるわけではないということです。
単に霊的レベルが同じぐらい、というだけではなく、インスピレーションを受けるには親和性も需要な一つになるようです。
松 本: 4巻の74ページですが、
  地上は学校と同じです。
少しずつ勉強し、知識を身につけていくうちに、徐々に霊性が目覚めていきます。
すると更に次の段階の真理を理解する力がつくわけです。
それが人生の究極の目的なのです。
確かに地上は学校と同じだなあと思います。
カルマという観点から見ると地上は病院でもあるように思います。
塩 谷: なるほど、病院ですか。
カルマを病気とかケガというふうにとらえたわけですね。
4巻の102ページにありますが
今の自分に満足できず、さらに何かを求めようとするところに、より高い知識を得る可能性が生まれるものだからです。
満足する人間は進歩が停滞します。
満足できない者はさらに大きな自由へ向けて突き進むことになります。
これは学校そのものですね。
6巻の116ページの言葉には驚きました。
最終的にはいつの日か地上の人類も霊と霊とが自然な形で直接交信できるまでに霊性が発達します。
それを機械を使って代用させようとすることは進化の意図に反することです。
進化はあくまで霊性の発達を通して為されねばなりません。
霊格を高めることによって神性を最高に発揮するのが目的です。
直接交信できるぐらい霊性が発達するには、どれぐらいの期間を要するんだろう。
100年や200年ではなく、ものすごく長い期間が必要ですよね。
美知恵: 気が遠くなりそうな期間だけれど、地球ができて50憶年と言われていますから、それぐらいの期間は必要なのかも。
神様は気の長いお方なのですね。
松 本: おやおや、美知恵さんは神様を人間的に見てますよ。
美知恵: えっ?
あ、沁み付いた知識ってなかなか抜けないものですね。
失礼しました。
松 本: いえいえ、ほんのジョークっぽく言ってみただけですから、私の方こそ失礼しました。
希 和: 6巻の201ページですが、
良いことも悪いことも、明るいことも暗いことも、長所も短所も、愛も憎しみも、健康も病気も、その他ありとあらゆることがあなたの霊性の成長の糧となるのです。
比較できるものすべてが成長の糧になるということですね。
本当に、片方だけ欲しい、というわけにはいかないのですね。
使 枝: シルバーバーチは常に霊性の開発について述べてます。
プリントでは10巻の22ページに書いてありますね。
霊性の開発には青天よりも嵐の方がためになることがあるものです。
鋼が鍛えられるのは火の中においてこそです。
黄金が磨かれてそのまばゆいばかりの輝きを見せるようになるのは、破砕の過程を経てこそです。
人間の霊性も同じです。
何度も何度も鍛えられてはじめて、かつて発揮されたことのない、より大きな霊性が発現するのです。
楽な人生からは何も得られないというのが良くわかります。
皆さんもしっかり体験されていることでしょうから、痛い言葉だけれど確かな事実ですよね。
松 本: 確かに痛い言葉ですが、その通りです。
10巻の85ページの言葉は分かりやすいですね。
いかなることにせよ、良いことをすればそれだけ霊性が向上し、自己中心的なことをすれば、それだけ霊性を損なうのが道理です。
当たり前と言えば当たり前の内容なのですが、当たり前のことをし続けるのが大切だなあと思います。
美知恵: 8巻の126ページに書かれている言葉ですが、
  霊性が開発され進歩するにつれて、自動的に他人へ対して寛大になり憐れみを覚えるようになります。
これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。
相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の我慢です。
人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、まったくの無知から行為に出ていることがあるものです。
そこがあなたの我慢のしどころです。
イエス様の最後の言葉も同じでした。
自分に槍を向けて処刑しようとしている人たちのことを
「この人たちは自分で何をしているかわからないのです。」
と言ったと聖書に書かれています。
死の間際でさえ、自分を殺そうとしている人の言動を寛容に受け止められるなんて、最初読んだ時は驚きました。
希 和: 時々、どうしてこの人たちは分からないのだろう、みたいに思うことがあるのですが、そう考え方はちょっと傲慢でした。
この人は何をしているのか、何を言っているのか自分で分かってない、と考えてあげられるように私も努力したいと思います。
使 枝: 9巻の224ページの言葉が『霊性』の締めくくりのように思います。
こちらでは霊性がすべてを決します。
霊的自我こそすべてを律する実在なのです。
そこでは仮面も見せかけも逃げ口上もごまかしも利きません
すべてが知れてしまうのです。
地上では知識とか技術とか経済力とかがその人のステータスみたいになっていますけど、そういうのに惑わされてしまってはいけないと思いました。
惑わされない心を持ち続けたいと思います。
松 本: 確かに社会的なことで人を判断する時、使枝さんが言われたことで判断することが多いです。
さすがに財力で判断することはなくなりましたが、まだまだ技術とか知識とか性格で判断しがちです。
人にはない技術を持っていたり、専門分野の知識にたけていたり、協調性がある性格の人だったり。
結局、最終的には無意識のうちに自分にとって都合の良い人かどうか、一緒に居て心地好い人かどうかで見てしまいます。
塩 谷: それって誰でもそうじゃないですか。
俺なんか、気が付くと好き嫌いで判断してるし。
まあ、まだそれだけの人間ってことですから、学ぶたびに気が付いて、少しずつ変えていければいいかなって思います。
使 枝: 『霊的自我こそすべてを律する実在なのです』 とありますが、結局はその人の霊性がすべてだということだと思います。
霊性が全く成長していなければ本能とか欲望で動くでしょうし、ある程度成長している人なら理性で動くでしょう。
でも霊性が豊かな人は愛で動くのだと思います。
何がその人にとって必要なのか、何が大切なのかって。
天 枝: 私たちはスピリチュアリストの端くれです。
だからこそ書物からでも人からでも、自然からでもどんどん学んで吸収していきたいものです。
では、今日はこれで終わりにしたいと思います。
お祈り致しましょう。
(祈始)
あまねく存在していらっしゃいます大霊さま。
本日もあなたのエネルギーをふんだんに受ける中で多くを学ぶことができ、霊的に理解することができました。
1人1人はとても未熟で、自分はスピリチュアリストだと言うことさえおこがましいと思えるほどの者たちでございます。
しかしながら、世界に多くの人がいる中で、霊的真理を受け入れ、理解しようと努めている人は信じられないほど僅かでございます。
私たちはその僅かな者たちの一人だということを自負して、これからも霊的真理を理解し、あなた様を愛する行動をしていくように心がけてまいります。
本日も霊界の方々共に霊力を降り注いでくださり、理解が深まるために各々の霊性に語り掛けてくださいましたことを心から感謝申し上げます。
(祈終)
天 枝: ではこれで終わりましょう。
有難うございました。
全 員: 有難うございました。
 近年は自然災害が猛威を振るっている。
全てとは言わないまでも、その多くの原因が人間自身にあることを忘れてはいけない。
みんなが帰った後、天枝と使枝は外で風に揺らいでいる木の枝を見つめながら、大霊に思いを寄せてもう一度祈った。
― end ―
2020 /9 /17
   




















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