スピリチュアリズム
「神とは」 資料
神は決してあなた方を見捨てません。
見捨てるのはあなた方の方です。
あなた方が神を見捨てているのです。
困難に直面した時、その神の遺産を結集し、必ず道は開けるのだという自信をもつことです。
不動の信念をもてば道は必ず開かれます。
(1巻 p48)


星は寸分の狂いもなくその軌道上を回り、潮は間違いなく満ち引きを繰り返し、四季は一つ一つ巡りては去り、それぞれに荘厳にして途方もなく雄大かつ崇高なる宇宙の機構の中での役割を果たしております。
今あなたがそれを変えようとしても変えられるものではありません。
が、その大自然の営みの原動力である霊力と同じものを自分を通して働かせ、そうすることであなた自身もその営みに参加することができるのです。
神からの遺産を受けついだ霊的存在として、あなたも神の一部なのです。
神はあなた方一人ひとりであると同時にあなた方一人ひとりが神なのです。
ただ規模が小さく、胚芽的存在にすぎず、言ってみれば神のミニチュアです。
あなた方は神の縮図であり、その拡大が神というわけです。
霊性の高揚と成長と進化を通じて無限の神性を少しずつ発揮していくことによって、一歩一歩、無限なる神に近づいて行くのです。
(1巻 p 80)


地球は完全な状態で創造されたのではありません。
個々の人間も完全な状態で創造されたのではありません。
完全性を潜在的に宿しているということです。
その潜在的完全性が神からの霊的遺産であり、これを開発することが個人の責務ということです。
それには自由意志を行使する余地が与えられています。
善か悪か、利己主義か無私か、慈悲か残酷か、その選択はあなたの自由ということです。
ただし忘れてならないのは、どちらの方向へ進もうと、神との縁は絶対に切れないということです。
神のカとエネルギーと援助を呼び込むための手段は常に用意されています。
しかしそのためには時には魂の奥の間に引きこもり、その静寂の中でできるだけ神との融合を保つことを怠ってはなりません。
(1巻 p 84)


宇宙は無限・無窮の神的エネルギーによって存在しております。
しかし地上の人間の圧倒的多数はそのエネルギーのごくごく僅かしか感識しておりません。
受け入れる条件が整わないからです。
ですから、あなた方人間はその神の恩寵を存分に受け入れるべく、精神と魂を広く大きく開く方法を学ばねばなりません。
それには信念と信頼心と信仰心と穏やかさと落着きを身につけなければなりません
そうしたものによって醸し出される雰囲気の中にある時、無限のエネルギーから莫大な豊かさを受けることができます。
それが神の摂理なのです。
そういう仕組みになっているのです。
受け入れ、吸収する能力に応じて、エネルギーが配給されるということです。
受容力が増せば、それだけエネルギーも増します。
それだけのことです。
悲哀の念が消えるに従って、魂を取りまいていた暗雲が晴れ、確信の陽光がふんだんに射し込むことでしょう。
(1巻 p 141〜142)


霊の力はあなた方が神と呼んでいるものそのものなのです。
もっとも “神” というものを正しく理解していただけないかも知れませんし、誤解してその意を限定してしまっておられるかも知れません。
ともかくその霊力が曽て火の固まりであったものに今日見るがごとき生命を吹き込んだのです。
その霊が土塊から身体をこしらえて、それに生命を吹き込んだのです。
魂がまとう衣服です。
地上のあらゆる生命を創造し、自然界のあらゆる動き、あらゆる変化を支配し、四季を調節し、1粒の種子、1本の植物、1輸の花、1本の樹木の生長まで関与している力、要するに千変万化の進化の機構に全責任を負っているのが霊の力です。
(3巻 p 171〜172)


五感に束縛されているかぎりは神の存在、言いかえれば神の法則の働きを理解することは不可能です。
その限界ゆえに法則の働きが不完全に思えることがあるかも知れませんが、知識と理解力が増し、より深い叡智をもって同じ問題を眺めれば、それまでの捉え方が間違っていたことに気づきはじめます。
(3巻 p 191)


物的なものはいずれ朽ち果て、元のチリに帰ります。
野心、欲望、富の蓄積、こうしたものは何の役にも立ちません。
所詮はあなた方も霊的存在なのです。
真の富はその本性に宿されているものだけであって、それ以上ではありえませんし、それ以下でもありえません。
そのことを生涯を通じて悟っていかなくてはいけません。
それを悟ったとき、あなたは真の自分を見出したことになり、自分を見出したということは神を見出したということになり、そうなった時のあなたこそ真の意味での賢者と言えるのです。
(4巻 p 95)


あなた方も一人の例外もなく神の分霊なのです。
ということは、あたかも神があなた方にこう語りかけているようなものです ―
“私がすべての法則を用意し、あなた方一人ひとりに私の分霊を授けてあります。
宇宙を完全なものにするための道具はすべて用意してあります。
そのすべてを利用することを許しますから、自分にとって良いものと悪いものとをみずから選択しなさい。
それを私の定めた法則に順応して活用してもよろしいし、無視してもよろしい” と。
そこで神の子等はそれぞれ好きなように選択してきました。
しかし他方において、霊界から地上の経綸に当たっている者は神の計画を推進するために、地上において間違いなく神の御心に感応できる人材を送り込まねばならないのです。
地上の神の子等はこれまで大きく脇道に外れてしまったために霊的なことにすっかり無関心となり、物的なことしか理解できなくなっております。
(4巻 p 112)


私はよく生命とは宇宙の大霊のことであり、神とはすなわち大生命のことだと言うのですが、その意味は、人間が意識をもち、呼吸し、歩き、考えるその力、また樹木が若葉をまとい、鳥がさえずり、花が咲き、岸辺に波が打ち寄せる、そうした大自然の脈々たる働きの背後に潜む力こそ、宇宙の大霊すなわち神なのだということです。
同じ霊力の一部であり一つの表現なのです。
(6巻 p 35)


あなたが抱える問題について神は先刻ご承知です。
神は宇宙の大霊であるが故に宇宙間の出来事のすべてに通じておられます。
神とは大自然の摂理の背後の叡智です。
したがってその摂理をごまかすことは出来ません。
神をごまかすことは出来ないのです。
あなた自身さえごまかすことはできません。(6巻 p 47)


大霊とは全存在の究極の始源です。
万物の大原因であり、大建築家であり、王の中の王です。
霊とは生命であり、生命とは霊です。
霊として人間は始めも終りもなく存在しています。
それが個体としての存在を得るのは、地上にかぎって言えば、母胎に宿った時です。
物的身体は霊に個体としての存在を与えるための道具であり、地上生活の目的はその個性を発現させることにあります。
(6巻 p 93)


私の抱いている神の概念は完璧な自然法則の背後に控える無限なる叡智です。
その叡智が無限の現象として顕現しているのが宇宙です。
が、私はまだその宇宙の最高の顕現を見たと宣言する勇気はありません。
これまでに到達したかぎりの位置から見ると、まだまだその先に別の頂上が見えているからです。
(6巻 p 128)


ナザレのイエスが “神の御国は汝自身の中にある” と述べたのは偶話ではなく事実を述べたのです。
神は全生命の中心です。
宇宙は神が内在するがゆえに存在しているのです。
地上のあらゆる存在物も神が内在するからこそ存在しているのです。
あなた方もミニチュアの神なのです。
あなた方の心がけ次第でその内部の力が成長し、発展し、開花するのです。
(6巻 p 198)


自分も神であることを自覚なさることです。
そうすれば神の御国はほかならぬ自分の魂の中にあることを悟られるはずです。
それは絶対に裏切ることがありません。
無限の補給源である神の摂理に調和した生き方をしているかぎり、何一つ不自由な思いも空腹も渇きも感じなくなります。
といって必要以上のものはいただけません。
魂の成長の度合にふさわしいだけのものが与えられ、それより多くも、それより少なくも、それより程度の高いものも低いものも受けません。
それ以外にありようがないのです。
(6巻 p 198)


宇宙のどこでもよろしい。
よく観察すれば、雄大なものから極小のものに至るまでのあらゆる相が自然の法則によって生かされ、動かされ、規律正しくコントロールされていることがお分かりになります。
途方もなく巨大な星雲を見ても、極微の生命を調べても、あるいは変転きわまりない大自然のパノラマに目を向けても、さらには小鳥、樹木、花、海、山川、湖のどれ一つ取ってみても、ちょうど地球が地軸を中心に回転することによって季節のめぐりが生まれているように、すべての相とのつながりを考慮した法則によって統制されていることが分かります。
種子を蒔けば芽が出る この、いつの時代にも変らない摂理こそ神の働きの典型です。神は絶対にしくじったことはありません。
あなたがたの方から見放さないかぎり神はあなたがたを見放すことはありません。
(6巻 p 205)


宇宙には科学の実験室における如何なる分析検査にもひっかからず、化学薬品によってもメスによっても分析できず、しかも、これまで大きさを測定し重量をはかり切開できた他のいかなるエネルギーをも超越する力が存在します。
私が言っているのは愛の力のことです。
その愛は全生命の根源であり、宇宙を創造した大霊すなわち神の属性であるがゆえに死滅することはありません。
それはまさに生命の息吹きでありエッセンスなのです。
この愛さえあれば、縁で結ばれた者どうしはあらゆるハンディキャップ、あらゆる障害、あらゆる妨害を乗り越えて、いつかは必ずお互いを見出し合います。
(7巻 p 85)


私がお伝えしようとしている概念は全能にして慈悲にあふれ、完全で無限なる神であると同時に、地上の人間がとかく想像しがちな “人間神” 的な要素のない神です。
しかし神は無限なる大霊である以上その顕現の仕方も無限です。
あなた方お一人お一人が、ミニチュアの神なのです。
お一人お一人の中に神という完全性の火花、全生命のエッセンスである大霊の一部を宿しているということです。
その火花を宿していればこそ存在できるのです。
しかしそれが地上的人間性という形で顕現している現段階においては、みなさんは不完全な状態にあるということです。
(7巻 p 187)


宇宙は漫然と存在しているのではありません。
莫大なスケールをもった一つの調和体なのです。
それを解くカギさえつかめば、悟りへのカギさえ手にすれば、いたって簡単なことなのです。
つまり宇宙は法則によって支配されており、その法則は神の意志が顕現したものだということです。
法則が神であり、神は法則であるということです。
その神は、人間を大きくしたようなものではないという意味では非人格的存在ですが、その法則が霊的・精神的・物質的の全活動を支配しているという意味では人間的であると言えます。
要するにあなた方は人類として宇宙の大霊の枠組みの中に存在し、その枠組みの中の不可欠の存在として寄与しているということです。
(7巻 p 190)


私の説く神は宇宙の第一原因、始源、完全な摂理です。
ただし、それは人間ではありません。
人間的な神ではありません。
神格化された人間ではありません。
何かしらでかい存在ではありません。
激情や怒りといった人間的煩悩によって左右されるような存在ではありません。
永遠不変の大霊、全生命の根源、宇宙の全存在の究極の実在であるところの霊的な宇宙エネルギーであり、それが個別的意識形体をとっているのが人間です。
(7巻 p 200)



この法則を通して神の意志が働いているのです。
人間の法律には変更と修正がつきものです。
不完全であり、あらゆる情況を考慮に入れていないからです。
が、神の法則は、起こりうるあらゆる事態に備えてあります。
すべてが観制され、すべてが管理され、神の配剤がすべてに行きわたっております。
(9巻 p 48)


ここで用語についてはっきりさせておきましょう。
私が “大霊” と言う時、それは無限の知性であり、全生命の究極の裁定者であり、叡智と真理と理解力の極致です。
人間的存在ではありません。
ただ、それを表現する際にどうしても “彼” とか “あなた” といった人称代名詞を使用せざるを得ませんが、大霊は神格化された人物ではありません。
生命力であり、原動力であり、活性力であり、意識であり、生気です。
そうした原理の精髄です。
無限なものです。
したがって霊力も無限です。
それは誰の占有物でもありません。
通路となりうる人なら誰にでも流れます。
キリスト教やクリスチャン・サイエンスはもとよりのこと、あなた方でも治病能カを独占することはできません。
(9巻 p 170)


喜びと悲しみ、健康と病気、晴天と嵐、調和と混乱、こうした対照的な体験の中でこそ進歩が得られるのです。
ということは双方に神の意志が宿っているということです。
良いことにだけ神が宿っていると思ってはいけません。
辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも神が宿っていることを知ってください。
(9巻 p 214)


大霊と離れて何ものも存在しません。
大霊がすべてなのです。
大なるもの、小なるもの、複雑なもの、単純なもの、生命現象のありとあらゆる側面に対して神の配剤があるのです。
霊の働きがあってこそ、すべてが存在できているのです。
神の霊がすべてに潜在している以上、神との縁は切ろうにも切ることができないのです。
人間がいかなる説を立てようと、神がすべてに宿り給い、したがって神はすべてであり、すべてが神であるという事実は変えることはできません。
(10巻 p 26)


小さすぎるからということで無視されたり、見落とされたり、忘れ去られたりすることはありません。
それは大霊の一部が生きとし生けるものすべてに宿っているからです。
言いかえれば神がその霊性の一部を各自に吹き込んだからこそ存在しているのであり、その霊性が神とわれわれとを結びつけ、また、われわれお互いをつないでいるのです。
その絆を断ち切ることのできる力は地上にも死後の世界にも存在しません。
その絆があるからこそ、叡智と真理と啓示の無限の貯蔵所を利用することも可能なのです。
(10巻 p 27)


あなたは “人間性” を問題にされましたが、神はあらゆる人間に内在しているという意味では人間性があると言えます。
が、神は摂理であるという意味においでは非人間的存在です。
ましてや、自分を信じる者は可愛がり、信じない者には意地悪くするような、そんな恨み深い神さまではありません。
(11巻 p 90)
質問者: 自由意志の行使範囲は広いけど無条件の自由ではないということですか。
S B : その通りです。
範囲は広いのです。
さらにもう一つ別の次元の範囲もあります。
霊格の程度による範囲です。
その時点において到達した進化の程度によっても違ってきます。
さっきも言った通り、これは難しい問題です。
問題は法則の絶対性という基本的原理にかならず帰着します。
でも、あなた方も神です。
つまりあなた方一人一人が神の計画に参画しているということです。
生命はすなわち霊であり、霊はすなわち生命です。
あなたもその霊なのです。
つまりあなたにも神の計画の発展に寄与する力があるということです。
宇宙の無限の創造活動の一翼を担うことができるということです。
一方にはどうしても従わざるを得ない法則があり、他方には従うべきでありながら自由意志で勝手な行為に出てもよい法則もあります。
ただし、その行為の中にはそれ相当の結果を生むタネが宿されているということです。
(2巻 p 50) 
質問者: 独立した存在としての神はいるのでしょうか。
S B : まっ白な豪華な玉座に腰かけた人間の姿をした神はいません。
神とは一個の身体を具えた存在ではありません。
法則です。
(3巻 p 194)
質問者: 地上の体験、たとえば戦争、苦難、精神的ならびに肉体的受難、病気、悲しみ、憎しみ等々は人類の進化と発達にとって不可欠のものとして神の計画の中に組み込まれているのでしょうか。
S B : いえ、そんなことはありません。
戦争は神が計画されるのではありません。
病気は神が与えるのではありません。
人類が自由意志の使用を誤ってみずから招来しているのです。
その中にも学ぶべき教訓があることは確かです。
しかしそれは、何も人類どうしで野蛮な行為や恐ろしい残虐行為をし合わなくても学べることです。
人間が勝手にやり合っていることを神の行為と取り違えてはなりません。
(4巻 p 120)
スワッ
ハー
こう解釈してよろしいでしょうか。
あなたはアメリカ・インディアンを霊界の霊媒として使用しておられるので、たとえば神のことをインディアンの古い用語である Great White Spirit を使用することになる ― この方が国教会で使用されている Godよりも自然の摂理の表現として確かに適切です。
S B : それがまさしく私の言わんとしていたことです。
どうやらここで詳しく解説しておく必要がありそうですね。
このインディアンは私の道具です。
ですが、道具とはいえ (さきほど述べたとおり) これを使用している間はその個性によって条件づけられ、したがって私は私の言いたいことを表現する上で役に立つ要素を精一杯活用することになります。
たとえば大自然を支配する法則を私はアメリカ・インディアンの用語である “大霊” を使用しますが、それは一つには今なお残っている “神は人間である えらく威張った人間である” とする観念、しかもむろん女性ではなく、自分の言うことを聞く者だけを可愛がりそして特権を与え、気に入らぬ者には腹を立て憎むことすらする男性であるとする、いわゆる神人同形同性説との相違をはっきりさせるためです。
が、もう一つの理由として、それをどう表現しようと、その用語を超えた観念として私が何とかして明らかにしたい完璧な摂理の働き あなた方や私の願望にはおかまいなしに働く法則、全宇宙を支配する法則、四季のめぐり潮の満ち引きを調節する法則、地上の生命の生長と活動と運動とリズムを管理している法則の観念があるのです。
その法則は全存在の行為の一つたりとも、言葉の一つたりとも、思念の一つたりとも、観念の一つたりとも見逃すことはありません。
表に出る出ないに関わりなく、生活現象のすべてを管理しています。
その法則こそ私が最高の崇敬を捧げているものです。
それを大霊と呼ぼうと神と呼ぼうと、その他いかたる名称で呼ぼうと、その背後にある意味を理解してくだされば、それはどうでもよいことです。
それが全存在をあらしめている力です。
その力なくしては生命は存在しえないのです。
いかなる形態をとろうと、その力なしには存在しえないのです。
生命に存在を与えている根源的エネルギーなのです。
それを神と呼ぶのも結構でしょう。
大霊と呼ぶのも結構でしょう。
全知全能の知的存在と呼ぶのも結構でしょう。しかし、いずれも、所詮は言葉にすぎません。
私がそれを法則として説くのは、人間の意志ではどうしようもない絶対的な理法というものがあることを指摘したいからです。
それを正しく認識すれば、そのワク内でお互いが協調的に生きることができ、それに背いて不和と仲違いと利己主義と貧欲と腐敗と戦争を生むことにならなくて済むはずです。
その摂理を理解しさえすれば、人生の図式が分かるようになり、進むべき方向と道しるべと目的が見えるようになります。
そして同時にそれに自分を合わせていく方法も分かるようになります。
なぜなら、自分も一個の霊、全生命の親である神の一部として、永遠の営みに参加できることを悟るようになるからです。
(4巻 p 189〜190)
質問者: 神とは何でしょうか。
あるいは何者でしょうか。
それは 愛 全ての者に宿る愛の精神、ないしは感覚でしょうか。
S B : 神とは宇宙の自然法則です。
物的世界と霊的世界の区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。
完全なる愛であり、完全なる叡智です。
神は宇宙のすみずみまで行きわたっております。
人間に知られている小さな物的宇宙だけではありません。
まだ知られていない、より大きな宇宙にも瀰満しております。
神は全生命に宿っております。全存在の内部に宿っております。
全法則に宿っております。
神は宇宙の大霊です。
神は大生命です。
神は大愛です。
神は全存在です。
僕にすぎないわれわれがどうして主人を知ることを得ましょうか。
ちっぽけな概念しか抱けないわれわれにどうして測り知れない大きさをもつ存在が描写できましょう。
(5巻 p 140)
質問者: 神はすずめ一羽が落ちるのもご存知であると教わっています。
ですが世界の莫大な人口、いわんやすでに他界した幾百億と知れぬ人間の一人ひとりに起きることを細大もらさず知ることがどうして可能なのでしょうか。
S B : 神と呼ばれているところのものは宇宙の法則です。
それはすべての存在に宿っております。
すべての存在が神なのです。
各自の魂が自分を知っているということは神がその魂を知っているということです。
すずめが神であるということは神がすずめを知っているということです。
神が風に揺れる木の葉に宿っているということは、その木の葉が神であるということです。
あなた方の世界と私たちの世界、まだ人間に知られていない世界を含めた全宇宙が神の法則の絶対的支配下にあります。
その法測を超えたことは何一つ起きません。
すべてが自然法則すなわち神の範囲内で起きているのですから、すべてが知れるのです。
(5巻 p 141)
質問者: あなたは神はすべてに宿る 全存在の根源であるから愛にも憎しみにも、叡智にも不徳にも神が宿るとおっしゃいます。
そうなると、過ちを犯す者も正しいことをする人間と同じように神の法則の中で行っていることになります。
愛と平和を説く者と同じく、憎悪と戦争を説く者も神の法則の中で行動していることになります。
すべてが神の法則の一部である以上、その法則に違反する者もいないことになってしまいますが、この矛盾をどう説明されますか。
S B : 完全が存在する一方には不完全も存在します。
が、その不完全も完全の種子を宿しております。
完全も不完全から生まれるのです。
完全は完全から生まれるのではありません。
不完全から生まれるのです。
生きるということは進化することです。
前に向かって進むことであり、上へ向かって努力することであり、発達であり開発であり発展であり進展です。
あなた方のおっしゃる善も悪もその進化の行程における途中の階梯にすぎません。
終りではありません。
あなた方は不完全な理解力でもって判断しておられます。
その時点においては善であり、その時点においては悪だと言っているにすぎません。
それはあなただけに当てはまる考えです。
あなたと何の係わりもなければ、また別の判断をなさいます。
とにかく神は全存在に宿っております。
(5巻 p 142)
質問者: ということは神も進化しているということでしょうか。
S B : そうではありません。
神は法則でありその法則は完璧です。
しかし物質の世界に顕現している部分は、その顕現の仕方が進化の法則の支配を受けます。
忘れてならないのは地球も進化しているということです。
地震も雷も進化のしるしです。
地球は火焔と嵐の中で誕生し、今なお完成へ向けて徐々に進化している最中です。
日没と日の出の美しさ、夜空のきらめく星座、楽しい小鳥のさえずりは神のもので、嵐や稲妻や雷鳴や大雨は神のものではないなどと言うことは許されません。
すべては神の法則によって営まれていることです。
それと同じ寸法であなた方は、神が存在するならばなぜ他人に害を及ぼすような邪悪な人間がいるのかとおっしゃいます。
しかし人間各個に自由意志が与えられており、魂の進化とともにその活用方法を身につけてまいります。
霊的に向上しただけ、それだけの多くの自由意志が行使できるようになります。
あなたの現在の霊格があなたの限界ということです。
しかし、あなたも神の分霊である以上、人生のあらゆる困難、あらゆる障害を克服していくことができます。
霊は物質に優ります。
霊が王様で物質は召使いです。
霊がすべてに君臨しております。
全生命のエッセンスです。
つまり霊は生命であり、生命は霊なのです。
(5巻 p 144)
質問者: 神という存在はその神がこしらえた宇宙とは別個に存在するのでしょうか。
S B : いえ、宇宙は神の反映です。
神がすなわち宇宙組織となって顕現しているのです。
蝿に世の中のことが分るでしょうか。
魚が鳥の生活を理解できるでしょうか。
犬が人間のような理性的思考ができるでしょうか。
星が虚空を理解できるでしょうか。
すべての存在を超えた神をあなた方人間が理解できないのは理の当然です。
しかしあなた方は魂を開発することによって、ひとことも語らずとも、魂の静寂の中にあってその神と直接の交わりをもつことができるのです。
その時は神とあなたとが一つであることを悟られます。
それは言葉では言い表せない体験です。
あなたの、そして宇宙のすべての魂の静寂の中においてのみ味わえるものです。
(5巻 p 145)
質問者: 神はわれわれを通じて体験を得ているということでしょうか。
S B : そうではありません。
あなたの進化がすでに完全であるものに影響を及ぼすことはありません。
質問者: でもわれわれは神を構成する分子です。
部分の進化は全体に影響を及ぼすのではないでしょうか。
S B : それはあなた方を通じて顕現されている部分に影響を及ぼすだけです。
それ自体も本来は完全です。
が、あなた方一人ひとりを通じての顕現の仕方が完全ではないということです。
霊それ自体はもともと完全です。
宇宙を構成している根源的素材です。
生命の息吹きです。
それがあなた方を通じて顕現しようとしているのですが、あなた方が不完全であるために顕現の仕方も不完全なのです。
あなた方が進化するにつれて完全性がより多く顕現されてまいります。
あなた方が霊という別個の存在を進化させているのではありません。あなた方自身であるところの霊が顕現する身体を発達させているのです。
 (5巻 p 147)
質問者: 霊が自我を表現する身体にもさまざまな種類があるということでしょうか。
S B : そういうことです。
法則は完全です。
しかしあなたは不完全であり、従って完全な法則があなたを通して働けないから、あなたを通して顕現している法則が完全でないということになります。
あなたが完全へ近づけば近づくほど、完全な法則がより多くあなたを通して顕現することになります。
こう考えてみてください。
光と鏡があって、鏡が光を反射している。
鏡がお粗末なものであれば光のすべてを反射させることができない。
その鏡を磨いてより立派なものにすれば、より多くの光を反射するようになります。
要するに、すべての存在がより一層の顕現を求めて絶え間なく努力しているのです。
前に私は、原石を砕きながらコツコツと宝石を磨いているのが人生だと申し上げたつもりです。
原石はいらない、宝石だけくれ、というムシのいい話は許されません。
(5巻 p 148)
質問者: それでは神は原初においては善ではなかったということになるのでしょうか。
S B : 私は原初のことは何も知りません。
終末についても何も知りません。知っているのは神は常に存在し、これからも常に存在し続けるということだけです。
神の法則は完璧に機能しております。
つまり今の譬え話で申し上げた通り、あなたは完全な光をお持ちです。
ですが、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。
それを、光が不完全だ、光は悪だとは言えないでしょう。
まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。
地上で “悪” と呼んでいるものは不完全な段階で神を表現している “不完全さ” を意味するにすぎません。
(5巻 p 149)
質問者: 創造力をもつ存在は神と呼ぶ唯一の存在のみで、われわれには何一つ創造する力はないと考えてよいでしょうか。
S B : 神は無窮の過去から存在し未来永劫に存在し続けます。
全生命が神であり、神は全生命です。
ならば、あなた方に何が創造し得ましょう。
しかし魂が進化すれば進化するほど宇宙をより美しくし、完成させていくことができます。
進化の程度が未熟であるほど宇宙における位置が低いということになります。
(5巻 p 150)
質問者: 愛の神が人間の最低の感情の一つである憎しみの中にも存在するということが理解できないのですが……
S B : それは今だに神というものを人間的存在と考える概念から抜け切っていないからです。
神とは法則なのです。
法則がすべてのものを維持し保持し顕現させているのです。
神は愛を通してのみ働くのではありません。
憎しみを通しても働きます。
晴天だけでなく嵐も法則の支配を受けます。
健康だけでなく病気を通しても働きます。
晴天の日だけ神に感謝し、雨の日は感謝しないものでしょうか。
太古の人間は神というものを自分たちの考える善性の権化であらしめたいとの発想から(その反対である)悪魔の存在を想定しました。
稲妻や雷鳴の中に自分たちの想像する神のせいにしたくないものを感じ取ったのと同じです。
神は法則なのです。
全生命を支配する法則なのです。
その法則を離れては何も存在できません。
これは私がくり返し説いていることです。
あなた方が憎しみと呼んでいるものは未熟な魂の表現にすぎません。
その魂も完全な法則の中に存在しておりますが、現段階においては判断が歪み、正しく使用すれば愛となるべき性質を最低の形で表現しているまでのことです。
愛と憎しみは表裏一体です。
愛という形で表現できる性質は僧しみを表現する時に使用する性質と同じものなのです。
人生は常に比較対照の中で営まれています。
たとえば、もしも日向にばかりいたら日光の有難さは分からないでしょう。
時には曇りの日があるから太陽の有難さが分かるのです。
人生も同じです。
苦しみを味わえばこそ幸せの味が分かるのです。
病気になってみてはじめて健康の有難さが分かるのです。
病気にさせるものがあなたを健康にもするのです。
愛させるものが憎ませもするのです。
すべては神の法則の中で表現されていきます。
それが人生のあらゆる側面を支配しているのです。
(5巻 p 151)
質問者: 読者からの批判的な手紙が読み上げられるのを聞き終ったシルバーバーチはこう答えた。
S B : 困りました。
そうした方たちは永いあいだ神とは善なるものにのみ存在すると教えこまれてきているからです。
神とは一個の人間、誇張された立派な人間であるかに想像し、人間から見て良くないもの、親切とはいえないもの、賢明でないものは所有してほしくないというにすぎません。
しかし神は人間的存在ではありません。
法則なのです。
それが全生命を支配しているのです。
法則なくしては生命は存在しません。
法則がすなわち霊であり、霊がすなわち法則なのです。
それは変えようにも変えられません。
そこのところが理解できない人にとってはいろいろと疑問が生じるでしょうけど、成長とともに理解力も芽生えてきます。
神が善なるものを与え悪魔が邪なるものを与えるという論法ではラチがあきません。
ではその悪魔はだれがこしらえたのかという、古くからのジレンマにまたぞろ陥ってしまいます。
(5巻 p 153)
質問者: 神が完全なる存在であるならば、なぜもっと良い通信手段を用意してくれないのでしょうか。
S B : おっしゃる通り神は完全です。
ですがそれは神が完全な形で顕現されているという意味ではありません。
神そのものは完全です。
つまりあなたの内部に種子として存在する神は完全性を具えているということです。
ですが、それは必ずしも物質的形態を通して完全な形で表現されてはいません。だからこそ無限の時間をかけて絶え間ない進化の過程をへなければならないのです。
(6巻 p 114)
質問者: あなたたち霊の方が私たち人間より大霊と密接な関係にあるとお考えですか。
S B : あなた方も同じように大霊と密接な関係にあります。
なぜなら大霊はあなた方の内部に存在するからです。
大霊の火花が一人ひとりに宿って生命を与えているからこそ生きていられるのです。
それとも、“密接” とおっしゃったのは大霊とのより大きな調和、より強い一体関係が得やすいという意味でしょうか。
それならば “イエス” です。
なぜなら霊には無限の可能性と完全性が秘められていて、こちらの方がそれを発揮しやすいからです。
しかし地上においても霊界においても、その完全性をすべて発揮できる段階は来ません。
(10巻 p 79)
質問者: 私はあなたの霊言集を読み続けております。
その中のどこかであなたは、人格神は人間が発明したもの以外には存在しないとおっしゃっています。
“大霊とは法則です” と述べておられるのですが、別のところでは、“未来永劫にわたって神の愛と愛の神が存在します。
皆さんが愛念を表現するごとに神がみずからを顕現なさるお手伝いをしているのです” とも述べておられます。
これらの表現や他のもろもろの言い回しを拝見しておりますと、私にはあなたは神を人格を具えた存在であるかに表現しておられる印象を受けるのですが、その辺を明確にしていただけないでしょうか。
S B : 分かりました。
でも、これはとても難しい間題です。
なぜならば、無限なる存在を有限なる言語で定義することは事実上不可能なことだからです。
大霊は人間が考えるような意味での人物的存在ではありません。
人間を大きく拡大したような存在ではありません。男性でもなく女性でもありません。
大霊は宇宙最高の力、無限の知性、愛、慈悲、蔵智、要するにありとあらゆる霊的資質の原理の総合的化身です。
が、その概念をお伝えしようとすれば、どうしても人間の言語を使用せざるを得ません。
もしも私が大霊のことを中性名詞で “それ” と呼んだら、男性名詞で “彼” と呼ぶよりもさらに厄介な問題が生じます。
(11巻 p 88)
質問者: 私どもは大霊があなたのような高級界の霊を通して語りかけてくださっていると理解しておりますが、人類の歴史を通じて、かつて大霊が霊を経ないで直接語りかけたことがあるのでしょうか。
S B : 大霊は個的存在ではありません。
大霊は個人が神格化されたものではありません。
大霊は個性を超越した存在です。摂理・愛・叡智・真理の粋(エッセンス)です。巨大な宇宙で休みなく作用している無限の知性です。
それは数かぎりない自然現象の中に見ることができます。
その子等が英雄的行為、滅私の行為、慈悲の行為を通じて、自分より恵まれない人のために尽くす時の、その愛の表現の中にも見ることができます。
又、病の人を癒やし、喪中の人を慰め、意気消沈した人を元気づけてあげる時の霊力の流れの中にも見ることができます。
一個の男性あるいは女性として出現することはできません。
個々の人間に宿る神性の発現という形で、部分的に顕現されることはありうるわけです。
(11巻 p 95)
質問者: 私たちから大霊に直接語りかげることはできるのでしょうか。
もしできるとしたら、それは私たち自身に内在する神性のことでしょうか。
S B : あなたは大霊であり、大霊はあなたなのです。
その違いは種類でも本質でもなく顕現の度合いに過ぎません。
大霊は完全の極致です。
あなたはそれに向かっての努力を限りなく続けるわけです。
したがって大霊は内部と外部の双方に存在するわけです。
あなたが愛・寛容心・慈悲・哀れみ・仁といった神性を発揮すれば、その時あなたは大霊と通じ合っていることになります。
なぜなら、あなたを通じて大霊が表現されているからです。
一方、大霊には無数のメッセンジャー、無数のチャンネルがあります。
神意を行きわたらせることを任務とした高級神霊の一大組織が張りめぐらされております。
ですから、もしもあなたが大霊に向かって語りかければ、黙って念じるだけでも、精神統一でも、あるいは声に出して祈ることによってでも、あなたの意志が大霊に届けられます。
声に出すということは良いことです。念じるだけではとかく乱れやすい思念を明確にまとめ、具象化することになるからです。
しかし声に出す出さないに関係なく、衷心からの切望は大霊に知られると同時に、神意の行政を司る任にある高級霊に届きます。
(11巻 p 96)
質問者: 科学者としてのこれまでの人生は悩みの連続でした。
その第一は神の概念で、スピリチュアリズムを知ってからは、あなたが “大霊” と呼んでおられるものを信じておりますが、それまではキリスト教の神の概念が受け入れられなくて私なりの概念を抱いておりました。
それは、神とは広い意味での大自然の法則と同一視できる存在であり、キリスト教で説かれているような個体性をもつ存在ではないということです。
いかがでしょうか。
S B : まず、真実からほど遠いキリスト教の概念から始めてみましょう。
ここですぐ問題となるのは、有限の言語では無限なるものは表現できないということです。
ゴッド、神、あるいは私のいう大霊は永遠の存在であり、初めもなく終わりもなく、無窮の過去から存在し、これからも永遠に存在し続けます。
霊ないし生命力も同じように永遠の存在であり、初めもなく終わりもありません。
かくして神、生命、霊、こうしたものは常時存在しているもので、時間的にいつから発生したという性質のものではないということです。
限りある存在であるあなた方人間には全体を把握するということは不可能ですから、宇宙の背後のその壮大な力は、限られた形でしか想像できないことになります。
今あなたは神を大自然の法則と同一視しているとおっしゃいました。
しかし神は大自然の法則よりもっと大きい存在です。
なぜなら、その法則を支配しているのが神だからです。
神とはその自然法則と同時にそれが作動する仕組みをもこしらえた無限なる知性です。
残念ながら地上の大部分の人間にとって、神はどうしても人間に似た存在とならざるを得ません。
個的形態を具えていない存在というものが想像できないのです。
しかし神は、あなた方が想像するような個的存在ではありません。
あなた方が存在するような人物的存在ではありません。
神とは非人間的存在でありながら同時に人間性のすべてを表現する存在です。
これはあなた方には理解できないでしよう。
神はすべての生命の中に宿っています。
その生命が人間という形で個別性をもつことによって、神は森羅万象を支配する法則としてだけでなく、個性をもつ存在として顕現したことになります。
ですから、神を一個の存在としてではなく、無限の知性と叡智と真理を具えた実在そのもの、人間に想像しうるかぎりの神性の総合的統一体と考えてください。
それは男性でもなく女性でもなく、しかも男性でもあり女性でもあり、個性というものを超越しながら同時にあらゆる個性の中に内在しているものです。
神は万物の内側にも外側にも存在しています。
神から離れては誰一人存在できません。
神から切り離されるということがありえないのです。
あなたの中にも存在しますし、雨にも太陽にも花にも野菜にも動物にも、その他いかに小さいものでも、存在を有するかぎりはすべてのものに宿っているのです。
私が大霊と呼んでいるこの神の概念を伝えるのは至難のわざです。
あらゆるものを支配し、あらゆるものから離れず、存在するものすべてに内在している崇高な力です。
(11巻 p 108)
質問者: 神が完全な叡智と知性と愛を具えた普遍的な霊であり、全生命を支配し、しかも人間を自分に似せて創造したのであれば、なぜ人間は不完全なのでしょうか。
S B : それはミクロとマクロの問題です。
人間は神の完全性の要素をミクロの状態で内蔵しております。
人間はそれを発現させ完成させなくてはならないのです。
それは無限の時間を要する過程です。
別に難しい問題ではありません。
人間的精神と霊と身体とが完成された状態で創造されたわけではありません。
が、内部に神性という完全性の火花が宿されております。
その火花を大きな炎と燃え上がらせるために、人生を自然の摂理に順応させるのが人間の務めなのです。
地上の人間が厄介なのは、自分で勝手な神を想像することです。
人間的存在として想像する場合でも、女性ではなく男性として想像します。
男性である方が女性であるより勝れているかに信じているわけです。
神は人間を霊的にご自分に似せて創造されたのです。
生命は霊であり霊は生命です。
霊的に似せて創造された以上、あなたは永遠に神とつながっており、神性を共有しているのです。
ということは必然的に人間は霊的大家族の一員であることになります。
同じ神性が宿っているからです。
ですから人間は霊的に神に似ているのであり、姿が似ているというのではありません。
(11巻 p 110)
質問者: 神は地上世界の人間にはほとほと手を焼いておられることでしょう。
S B : それは今に始まった話ではありません。
太古からずっとそうです。
しかし、我慢の大切さを説いている私たちは、それをみずから実行しなければなりません。
もしも皆さんに対する愛がなければ、わざわざこれほど暗い世界へ戻ってくるようなことはいたしません。
同時に又、地上に救いの手を差しのべるべき時機が到来したからこそでもあります。
つまり私たちの援助を受け入れる準傭ができた人がいるということです。
ただ悲しいかな、魂が目を覚まし真の活動を開始するようになるまでには、霊的な絶望の淵を体験しなければならないことがよくあるものです。
霊の光は、これからも媒体のあるところならどこでも照らし続けます。
場所によってはほのかな明かり程度にすぎないこともあります。
が、神性を帯びたものであるからには完全に消えてしまうようなことは絶対にありません。
自然の摂理はあなた方の地球だけでなく、あるいは銀河系宇宙だけでなく、全大宇宙を支配し経倫しております。
神はその無限の叡智をもって全大宇宙のすみずみまで配剤してくださっています。
心配してはいけません。
心配は何の役にも立ちません。
そして、少しも事態を改善することにはなりません。
(11巻 p 111)
― end ―
2019 /6 /5
              




















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