スピリチュアリズム 

散歩道 (雑感) 2020


2020-10-18 
「リニアに反対」

数年前から、クマが出没して住民と鉢合わせをして襲われるという事件が目に付くようになりました。
原因はおのずと知れてます。
野生動物の生活圏に人間が入り込んだことで、彼らの生命が脅かされたことにあるのではないかと思うのです。

今では自然がだんだん少なくなりつつあり、さらにリニアが通ることで野生動物の活動生活圏が少なくなります。

それでいて民家にクマが出没した、猿が出てきた、と言っては騒ぎ、挙句の果てには殺処分。

これ以上野生動物たちの生きる場所を奪ってはいけないと思うのです。

今年はドングリが不作だとか。
昔は不作でも歩き回って探せば何かしら食べるものがあったのですが、今では探し回るとすぐに人間の生活圏に入り込んでしまいます。
そこで人間が捨てた食べ残しを見つけたり、通りがかりにクマや猿を見たらおやつをあげてみたりするわけです。

そんなことをしておきながら、クマに襲われた、猿に襲われた、だから退治するというのは人間の傲慢さ以外の何物でもないと思います。

こうした理由を踏まえてリニアには反対です。
リニアの開発は科学者や技術者たちの腕比べなのでしょうか。
それとも政治がらみで、利権問題などがあるのでしょうか。
日本は新幹線で十分だと思います。

皆さんはどう思われますか?


2020-7-18 
「三浦春馬さんの自死」

驚きました。
本人にとってはどうしようもないぐらい苦しい状況だったからこそ、自ら死を選んだのでしょう。

誰かがこういう死を選ぶたびにやるせない憤りを感じます。
せめて霊界のことを少しでも知っていたら、こういう決断はしなかったはずですから。

死ねば楽になる?
とんでもない。
その正反対です。
自殺したら苦しみから解放されるどころか、その反対に死ぬ間際の苦しみと恐怖がずっとずっと続くのです。
死ねば楽になるのではなく、さらに苦しい暗闇に吸い込まれて行ってしまうのです。

肉体があるうちは逃げ場があります。
相談できる人だっているはず。
気分転換して気持ちを和らげることだってできます。
仕事上の問題で悩んでいるなら、仕事を辞めればいい。
イジメられているのなら、イジメる人たちのいないところへ行けばいい。

逃げることは卑怯でも何でもなく、自分で自分を守る手段です。
悪いことをして逃げるのは卑怯極まりないけれど、自分の心の問題なら、その場から逃げることは卑怯ではないのです。
むしろ勇気がいることですから、勇者だと思います。

自殺したのちの霊界では、視野はさらに狭くなり、死んでそこから逃がれたくても、逃げ場所さえなくなってしまうのです。
地上で生きていれば逃げ道がいくらでもあります。

今自殺を考えている人がいるなら、絶対にやめてくだださい。
自殺をしたら、今の何十倍もの時間を、光の無い真っ暗闇の中で、1秒たりとも息抜きさえできず、逃げることもできず、今の何十倍も苦しみや恐怖を感じ続けるしかなくなってしまうのですから。

今自殺を考えている人がいたら、「迷える霊との対話」、 アラン・カルデックの「天国と地獄」をぜひ読んでみてください。
必ず逃げ道が見つかりますから。


2020-6-24
「高学歴ニートたちへの講義番組を見て」

ほぼ毎週見ているテレビ番組ですが、橋下徹さんと林修さんの2人が高学歴ニートたちに直接講義をする、というのを見ました。
学ぶところがたくさんあったし、2人の話の展開にとても感動しました。
さすが、橋本さんと林さん。
自分の考え方を押し付けるのではなく、体験を交えて将来を垣間見させる話の展開は素晴らしかった。
地上だけで考えれば最高の講義だったと思います。

聖書の中に「死人のことは死人に任せておけ」という言葉があります。
亡くなった人の霊は、先に亡くなって向こうの住人になっている霊に任せておけ、という意味だと思います。

しかし別の解釈もできるのです。
シルバーバーチは、地上で霊的真理に目覚めてない人は死人と同じであると言っています。
橋本さんや林さんが霊的真理に目覚めている人かどうかはわからないけれど、もしもまだ目覚めていないとするなら、霊的死人が霊的死人に講義したということになります。
「死人のことは死人に任せておけ」という言葉に納得がいきました。

出演した高学歴のニートが発した言葉の90%は無知で利己的な意見でした。
例えば、親が勝手に自分を産んだんだから親が金を出して生活させてくれるのは当たり前とか、一週間に1~2回働いて年収3000万ぐらいの収入を得たい、という意見を聞けば、まともな大人なら売り言葉に買い言葉で応戦したくなると思います。
実際、私自身もそういう思いが湧いてきました。

しかしそういう発言であるにもかかわらず、2人は売り言葉に買い言葉的な内容ではなく、その若者がなぜそういう言葉を発したのかを考えて、別の角度から話していました。

もし私だったら霊的真理を話したかもしれません。
「親は子供を選べない、子供が親を選んで生まれてくる」とか、「知識は身を助けるのだから濡れ手に粟のような考え方では結局自分の身を滅ぼしてしまう」と言っていたかもしれません。

でもニートたちの考えの甘さを責めないで、しっかり受け止めて話を話した内容は本当に説得力があったし、私自身の傲慢な部分を指摘されたようで、恥ずかしくなりました。

あとで考えてみて、「親が勝手に産んだ」と発した人は南米系の人で、もしかしたら日本で差別されたりイジメられたのでそういう考えに至ったのじゃないかと思い至りました。
マイナスと思える言葉の裏には、そう発するだけの原因があるに違いありません。

最後にニートの1人が、「今までこういう大人に出会ったことがない」と最後に言ったのに驚きました。
正直なところ、「えっ? 本当にいないの?」と思いました。
不運としか思えませんが、実際に今まで納得のできる説明をしてくれる大人がいなかったのでしょう。
外見とか定職についていないという理由だけで、頭ごなしに自分の価値観を押し付けてくる大人ばかりを見てきたのかもしれません。

みんなから愛されて、受け入れてもらえて、認めてもらえて、無理をしなくても そこそこの努力で何不自由のない生活ができるなら楽かもしれません。
でも、そういう人生を歩める人はとても少ないと思います。
実際にそういう生き方では大した成長は望めませんしね。

これから大人社会にまみれて行く中で、愛されることを望む人よりも愛する人になった方がどれだけ霊的にも現実的にも生きる価値があるか、それを身をもって知ってほしいと思いました。

愛されることを望む人は多いけれど、愛する力のある人は本当に少ないのです。
愛の世界においては需要と供給のバランスが極端に悪いのをまた新たに考えさせられました。

願わくば、あの人たちだけでなく、多くの人が霊的真理に出会い、地上で生きることの意味をしっかり知って欲しいと願わずにはいられませんでした。


22020-2-29 
「もったいない余命〇〇年」

ネットでも週刊誌でも新聞でも、感動する話より事件とかゴシップ的なものの方が世の中受けします。
これが地上のレベルというか、最も多い魂の段階なのだといつも思います。

感動したり、泣けてくる話は時々あるけれど、子猫を穴から救った話とか、余命〇〇年という話には申し訳ないけれど感動できないのです。

なぜかというと、死後の世界があるということを知っていたらそんなに悲しまなくても済むのに、という思いに他ならないのです。
それ以上に、地上で生きている意味が分かれば、たとえ余命が少なかったとしても充実して誇れる一生が送れるんじゃないかと思えて仕方がないのです。

子猫とか子犬をレスキューする話にしても、行動自体は素晴らしいのですが、助けている人ってまさか肉食している人?
これって矛盾してませんか?
片や小さな命を救おうと必死になっているのに、その裏側では牛や豚や鶏を食べているわけですよね。
殺処分されている犬猫の多さとか、最近ではジビエのことを考えると、気分が塞いでしまいます。

本当に感動するのはアフガニスタンで亡くなった中村哲さんの偉業とか、尊敬してやまないマザー・テレサの生きざまに触れた時です。
偉業を成し遂げた方は、もちろん他にもたくさんいらっしゃいます。
他人のために人生を最大限に使った生き方こそ本当に感動するし、心がリセットされるし、鼓舞されます。
勇気がない自分には到底できないことだから、そういう方々の生き方を知ることで、心の隅々まで感動が広がります。

人は肉体の機能が止まっても霊は永遠に生き続ける。
それも、再生しながら。
といってもその再生は何十回もするのではなく、小我がほんの数回再生しあって大我が成長するというのです。

だから、余命〇〇の話というのは死んで終わりにしてしまうことであるし、その人を思い出の中に閉じ込めてしまうことなので、実にもったいないと思います。

霊界に戻ってみると、地上で体験してきたことのすべての意味が一瞬にして理解できるようになると言います。
なぜ不治の病になったのか、なぜ残酷な目に合わなければいけなかったのか、なぜ騙されたのか、なぜ犯罪に手を染めた挙句に抜けたくても抜けられなかったのか、など、書き出したらキリがありません。

霊界があるということ、たった一つそれを知っているだけで死への恐怖も家族と離れる悲しさも無くなると思うのです。
それどころか、次への希望さえ湧いてきます。
私だったらですが、霊界に戻ったら次に何をさせてもらえるんだろう、でしょうか。

しかし、肝心なのはスピリチュアリストとして今何ができているのか、一生の間に何ができるか、それが自負できない限り後悔が残ります。
私自身、後悔しないように できるうちにやっておこうと思っています。


2020-1-23
「愛犬の葬儀」

昨日、近所のお婆ちゃん犬が他界したので、今日は飼い主さんと一緒に火葬場に持って行きました。
丸16年の豆シバ。
老衰と乳腺癌の両方が原因でした。

行く前、飼い主さんは全身を洗ってやり、ドライヤーで乾かしてあげていました。
それから段ボールに入れて、たくさんの花で周りを飾って、火葬場に持って行ってお別れです。
みんな泣いていました。

1昨年、溺愛してきたウチの犬も亡くなりました。
その時は洗ってあげなかったし、花で埋め尽くしてあげなかったし、何より涙さえ出ませんでした。
大切に大切に飼っていた犬で、17年でした。
涙が出ない私は冷たい心の持ち主なんでしょうか。

霊界のことを知っていると、これが最後の別れだとは思えないんですよね。
人間の霊と違って、動物の霊は他界すると個別性がなくなるそうです。
でも、後に飼い主が他界した時に幽界で再会できるということを知っているので、触ることも見ることもできなくなった寂しさはあるけど、別れに対する悲しみはないのです。
何より、介護しきったという達成感があったのかもしれません。

抜け殻になってもなお生きていた時以上に慈しんであげるのは、見ていて美しいものです。
でもそれは霊的真理を知らないからだと思うのです。

もう抜け殻になっていて痛みも何も感じなくなっているのに、濡れたままだと寒いだろう、ドライヤーが熱いと可哀そう、お腹がすいていると思うから大好きだったパンを置いてあげよう、そんなことを言い合いながらきれいにしてあげていました。
私の中からとっくに消え去った感覚です。

火葬場では、重さに応じた料金を支払って引き渡すだけの手順。
人間とは違って非常にあっけないものでした。

亡くなった豆シバちゃん、にっこり微笑んでいるようなお顔でした。


2020-1-16
「地上的な考え方と霊的な考え方」

前回、ウイグル人の女性の動画を紹介してから、ずっと考えていました。

地上的視野で考えると、カルマの問題として考えるのはどうしても冷たい考え方のような気がしていました。
でも、バーチを読んでみると、やはりカルマとして考えるしかないのだというところに収まりました。

目先の判断ではどうしても可哀そうとか 残酷という、感情が先走った判断に陥りやすいのですが、霊的視野で見てみると、残念ながらそれはお粗末な見解でした。

「古代霊は語る」の中の「再生」の章の中で、マイヤースの言葉が紹介されています。
79ページです。

仮に不幸にして不具の肉体をもって地上に生まれたとすれば、それは前世において何らかの重大な過ちを犯し、それを償うには、そうした身体に宿るのが一番効果的であるという判断があったと解釈すべきである。

たとえば白痴に生まれついた者は、それなりの知能で地上生活を実感し、それなりの地上的教訓を吸収することを余儀なくさせられる。
地上で暴君とか残忍な宗教裁判官だった者は、白痴とか精神薄弱児として再生することがよくある。

いつの時代にも、今日食べるものにも事欠くような境遇の人たちが多くいます。
人間扱いされない人たちも大勢います。

なぜそういう人生を余儀なくさせられているかというと、自分のカルマを清算するにはこの人生、この境遇に生まれるのが一番効果的であるという判断をして、自らの意志で選んで生まれてきたということなのですね。

今の地上生活だけを考えると可哀そうなのですが、もしそれれを白紙に戻してしまったら、かつて犯した罪が償えないことになってしまいます。

今の私としては、そういう人たちがカルマを清算して、何かを学び、次に進んでくれることを祈るしかありません。


2020-1-14
「あるウイグル人女性の身に起きたこと」

今日、何気なくYouTubeを見ていたら、ウイグル人に関するとってもショッキングな動画を見てしまいました。

https://www.youtube.com/watch?v=XYsIHsuBVZ0

戦後の日本に生まれて、裕福ではないけれど質素に生きてきた私にとっては本当にショックな情報です。

そんなことも知らなかったの? と言われそうですが、自分も大半の日本人同様 平和ボケしていました。

中国では、死刑囚や法輪功学習者だけでは足りなくなったのか、ウイグル人などを捕えて臓器狩りをしているのも判明しています。

世界中を見渡すと、他にも常軌を逸したことが数多く起きています。

今、地上的な視野に陥っているせいか、スピリチュアリズム的にどう考えたらいいのか分からなくて混乱しています。
某スピリチュアリズムのサークルに言えば、「それはカルマの問題」 と一蹴されそうですが、そんなに簡単に割り切ってもいいのでしょうか。

こういう時にこそシルバーバーチを読んで心を静め、霊的視野を取り戻さなければいけないようです。


2019-12-31
「謹賀新年」

明けましておめでとうございます。

昨年までは家族の問題があって更新もままならないことが多かったのですが、時間を取られる出来事が少なくなったので、今年は頑張って更新していこうと思っています。

目立たないサイトですが、コツコツと書いていきますので、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 


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