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2019-12-31 「大晦日と元日」 今日は大晦日なので明日は元日となるわけですが、日本は元日になっても海外ではまだ大晦日。 シルバーバーチがいつも言っている、地上は時計を基準に回っている、というのをまざまざと感じるひと時でもあります。 同じ現在にいても2019年の時にいる人たちと、2020年にいる人たち。 太陽を中心に回っている物質世界の一つの表現方法なんだなあと思う本日です。 |
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2019-12-11 「自分を信じる」 人は折に触れて「信じる」という言葉を使います。 大切なのに漠然としているというか、曖昧な言葉だなあとずっと思っていました。 神を信じる、誰かを信じる、自分を信じる、無罪だと信じる、などといろいろ使われています。 大雑把に言えば 「疑わない、期待している」 という意味で使うことが多いかと思います。 この中で一番曖昧な「自分を信じる」とはどういうことかを考えてみました。 試合か何かの時、「自分を信じて頑張って!」なんて言葉を聞くと、えっ? 自分の何を信じろというの? なんて思うのは私ぐらいなものでしょうか。 「あなたの中には まだ発揮されていない無限の力があるのよ」というような意味で使っているのかもしれません。 要するに 「火事場の馬鹿力」 がある ということでしょうか。 私はかつて人を傷つけたことがあります。 予期せぬことだったし、悪意があったわけでもないし、言われて初めて気が付くほどのことでした。 それなのに「あなたを信じていたのに、よくも裏切ってくれたわね」って言われて、もう目が点になりました。 私の何を信じていたというの? あなたが自分で勝手に私に期待しておいて、その通りにならなかったからと言って裏切られただなんて、よく言うわ! とは言いませんでしたが、心の中ではそう思いました。 地上的な考え方はここまでにして、スピリチュアリズム的にはどう考えたらいいのでしょうか。 私なりの見解ですが、自分を信じるとは、霊力(神のエネルギー)は絶対である、ということを疑わないこと ではないかと。 霊力は、その人が成長するために使われます。 地上の人間にとって不幸と思われることでも、その人が成長するためには不可欠な出来事なのだから、甘んじて受け入れることでどれだけ大きな霊的利益に変換されるものなのか。 この霊的利益は魂が開花した人だけが体感できるものです。 自分から見て良い結果になろうと悪い結果になろうと、すべて自分にとってプラスになるために注がれたエネルギーなのですから、これほど安心できて確かなものはありません。 ただただ感謝あるのみです。 |
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2019-11-6 「最低限実行すること」 シルバーバーチの交霊会に参加された方や、交霊会に出席されてその様子をまとめられた方たちの言葉によると、誰もが感じる共通するシルバーバーチの姿勢が書いてあります。 神の使徒として真摯な態度であるのはもちろんだけれど、それとは別に 「決して人を諫めない。 絶対に人の悪口を言わない。」というのが共通した認識だったそうです。 シルバーバーチを読むたびに自分の至らなさに苛まれるのですが、だからこそ日常生活で多少の愚痴は口から出たとしても、「決して人を諫めない。絶対に人の悪口を言わない。」だけは最低限、シルバーバーチを見習って確実に実行し続けなければいけないと思っています。 しかし感情に負けてふと言ってしまった後に冷静さを取り戻した時、 何と自分は情けない人間なのだ、と後悔の念に苛まれます。 こう書いているのは、実は自分で自分に言い聞かせるためなのです。 |
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2019-10-18 「前代未聞、神戸の教諭間のイジメ」 本当に前代未聞の事件というか、教師としてあってはならないことが起きてしまいました。 イジメの内容を聞くと、あまりの酷さにやり場のない憤りで頭も心も一杯になります。 ほとんどの人がそういう気持ちになっていると思います。 あそこまで酷いイジメに発展してしまったということは、加害者の心がマヒしていたからだというのはわかりますが、許されることではありません。 マスコミに取り上げられるほどのことが起きると、次に出てくるのがネット上での炎上。 YouTubeにも何かしら出ていると聞きました。 それはそれで嫌な気持になります。 社会的制裁だと言う人もいますが、加害者宅を突き止めて電話をして暴言を吐いたりするのって、どうかなと思います。 こういう傾向は今回に限ったことではなく、あおり運転の時にもありましたし、スマイリーキクチさんの時にもありました。 無責任にもほどがあるといつも思います。 自分は正義の鉄拳を下しているつもりなんでしょうが、結局はそれって加害教師と同じことをしているということに気が付かないのでしょうか。 気が付けばやめるでしょうから、続けているということは気が付いてないということですよね。 「復讐するは我にあり」 という言葉があります。 このタイトルは映画にもなりました。 復讐するのは人間ではなく、神がする、という意味だそうです。 制裁を下すのは司法がやるべきであって、赤の他人がやることではないと思います。 匿名で言いたい放題言っていると、次は自分が制裁を受ける番が回ってきます。 因果律でそうなっているのです。 そういう人に限って、いざ自分がイジメられる側に立ったら、自分は何も悪いことをしていないのにどうして・・・と嘆くのでしょうね。 |
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2019-5-19 「自分の中で正誤が変わる時」 かつて、私は某宗教団体に属していました。 清貧で、無欲な人たちの姿に感動し、共に歩むことを決意したのです。 そこ独自の真理の学習はとても難しいけれど楽しかった。 それ以上に、一緒に学んでいる人たちとの交流は それまでの私の人生を一変させ、深く付き合えることに喜びを感じていました。 そこに神の導きを強く感じていたということもあります。 私だけがそう感じていたのではなく、たぶん他の人たちの多くがそう感じていたと思います。 お決まりのように、宗教団体に付きものの伝道に精を出しました。 自分を愛して導いてくれている神のため、神様にお返しするには霊的真理を伝えるのが一番だと思い、本当に必死になって伝えました。 ところが、頑張れば頑張るほど更に愛されている自分を自覚していたのです。 感動で毎日のように涙が流れました。 今はその宗教からは身を引き、こうしてホームページを立ち上げています。 シルバーバーチの霊訓を読んでいなかったら、今もまだ所属していたかもしれません。 シルバーバーチによって多くの間違いに気づかされたというのが辞めた理由です。 今振り返ってみると、一生懸命ではあったけれど、間違いだらけの信仰生活でした。 ということは、もしかしたら今は正しいと思っていることが、何年か経ったらまた間違いだったと気づかされるかもしれません。 こうして人は螺旋階段のように成長していくのですね。。 |
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2019-5-14 「裏アカウント」 若者の間で裏アカウントなるものがあることを初めて知りました。 えっ? そんなの常識って? 1人がいくつもアカウントを持っていて、裏アカウントというのは悪口を書くため専用なんだそうですね。 なぜ裏アカウントを使って友人とか芸能人の悪口を書いているのかというと、ストレス発散なんだとか (-_-;) 発散したい気持ちがわからないわけではないけれど、それって人間としてどうなの? と問いたくなりました。 そもそも、日本人って本音と建て前を使い分ける人種なので、その悪い部分が出てしまっているのでしょう。 誰でも、他人の悪口を言うことが良いことだとは思ってないはず。 誰も見ていないなら悪いことをして、誰かが見ているならしないというのは人間の弱さかもしれないけど、許されることではないと思います。 悪いと思っているなら やめた方が良いですよね。 自分が誰か特定されなくても、自分で自分のことは良くわかっています。 悪いと分かっているのに直そうとしないで続けて行くなら、それ相応のペナルティをどこかで受けることになります。 つまり、カルマとして自分が受けなければいけなくなるということです。 情状酌量はありません。 自分がしたは、良いことも悪いこともそれ相応の形になって自分に返ってきます。 とってもわかりやすい摂理です。 |
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2019-4-27 「動機が大切」 ネットはよく利用しますが、多くの人の意見、特にゴシップ的な内容は読まないようにしています。 ニュースを読んでいて飛び込んでくるネットユーザーの反響はすさまじいもので、そこまで言う? みたいな感じがしませんか? より良き人間を求めるのではなくて、ストレスのはけ口にしているとしか思えません。 つまり、誰かを傷つけたいという悪意から出ているように感じるのです。 そんな悪意の込められた意見が一斉に自分に向けられたら、と思うとゾッとします。 まるで懲罰です。 自分がその懲罰を受けることをしてしまったのなら当然の報いだとしても、その人の家族とか親戚にまで懲罰が及ぶのは恐ろしいことだと思うのです。 言論の自由というのはありますが、自由には必ず責任が伴います。 責任が取れない言論は慎まなければいけないと思います。 誰でも完璧に責任が取れるわけでもないし、誰も傷つけない言動もあり得ません。 ではどう考えたらいいのか、ということになると思うのです。 シルバーバーチは言っています。 動機が大切だと。 動機が相手のためを思ってのことなら許されるけれど、悪意から出るものなら許されないわけです。 どんな結果になったのかという結果論ではないのです。 終わり良ければ総て良しではないのです。 なぜ戦争が無くならないのか、なぜ犯罪が横行するのか、なぜ苛めが無くならないのか。 全ては人間に悪意があるからです。 悪意のある欲望があるからです。 この問題を解決できるのは1人1人が霊的真理に目覚め、自分を正そうと努力することによってしかできないのでしょう。 ただ、いくら動機が正しくても この地上で良い結果が出るとは限りません。 むしその逆のことが多いのです。 でも、霊的真理を体験している人ならわかります。 動機が正しければ、地上的な結果は悪くても、やはり良い結果に導かれるのだと。 |
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2019-4-21 「お盆に提灯」 少子高齢化ですねえ。 私の家の周りでも、子供の数は激減しているのに高齢者の数はどんどん増えています。 昨年度は、近所の高齢の方が4人も亡くなりました。 これも自然の理だなあと思います。 それはそれとして、最近の高齢者たちの話している内容が耳について離れません。 ご遺族の方が言った言葉です。 「あっちもこっちも亡くなった人ばかりだから、今年のお盆は忙しいわ。 ウチも提灯ぐらい出してあげないと可哀そうだから、早めに買っておかなくっちゃ」 簡単に言えばこんなやり取りでしたが、「提灯がないと亡くなった人が可哀そう? 亡くなった人にそう言われたの?」 と突っ込みを入れたくなりました。 たとえ疑問を投げかけたとしても、日本では昔からそうしているからやるのは当たり前、と返ってきそうです。 霊的な知識がないと、何も考えずに、疑問さえ持たず、慣習だからとか、親戚の手前だとかで昔から引き継いできたことをやろうとします。 遺族たちは、多額のお金をかけていろいろな法要をすることが供養だと錯覚しているし、金額しだいで自己満足が得られるからやるのでしょう。 この人たちは霊的真理を知らないんだから、気にしない気にしない。 と頭では理解しつつ、頭と心の中はずっとモヤモヤが続いています。 |
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2019-03-01 「臓器提供」 私は子供の頃からコンプレックスの塊で、こんな自分なんていなくなっても何の支障もない、と思って生きてきました。 だからでしょうか、せめて死んだあとぐらいは臓器提供でもして誰かの役に立ちたい、と考えるようになりました。 その思いは祖母も母も同じで、臓器提供ができないなら、せめて検体でも、と言っていたけれど、結局はどちらも叶わずに2人とも逝ってしまいました。 今、臓器提供について考えています。 シルバーバーチを読めば答えは明らかです。 シルバーコードのことを考えると臓器提供などできるはずはないんですよね。 それでも、まだほんの少しだけウロウロしている自分がいます。 神が自分だけに与えてくれた身体なのだから、どのように扱おうと自分の責任において行えばい良い。 それも善意から出る行為だし、誰かの役に立つのだから、提供したからと言って咎められることもないはず。 ところが海外では、臓器提供を受けた人の性格とか好みが変わった、という話がよく聞かれます。 臓器が高値で売買されているため、その臓器を取るためにとんでもない犯罪が横行しているのも知っています。 臓器提供を受けた人の苦悩もよく聞きます。 一つ一つ考えていけば、バーチの言っていることはともかく、やはり臓器提供はすべきではないと思えてくるのです。 某宗教では輸血を禁止しています。 なぜ禁止しているのかは理解できないでもない。 もしも血液の中にエイズが入っていたら、肝炎ウィルスが入っていたら、と考えると恐ろしくなりますから。 もし自分が、臓器移植したら治るという病気にかかったとしたら、どうするだろう。 臓器移植どころか、胃ろうとか血液透析も絶対にやりたくない。 死んですべてが終わるなら、少しばかり長く生き延びるのも悪くはないけど、永遠に生きていくことを考えたら、早めに生を終えたいとさえ思うようになってきました。 たとえ病気で痛みが出たとしても、残りの人生を考えながら、病気の時にしか学べないこと、感じ取ることができないことをじっくり味わいながら自然に逝くことに決めました。 |
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2019-02-17 「SNS拡散の原因・無知の正義」 昨年末、17年飼っていた愛犬を亡くしました。 老衰でしたが、脳梗塞を患っていたので介護は結構大変でした。 死というものは永遠の別れではない、ということは十分知っているので悲しみはないけれど、ふとした時に思い出したりすると、一抹の寂しさが心を占めます。 最近、飼い犬を躾と称して虐待していた動画が拡散されました。 愛犬を亡くしたばかりだったので、ワイドショーで放映された動画を見たら、亡くなった愛犬とダブってしまって、しばらく涙が止まりませんでした。 人間に換算すると100歳にもなる犬をいくら躾と言っても蹴とばすのは、誰がどう考えても正しいこととは思えないどころか、犬があまりにも可哀そう・・・ 人間だって高齢になれば認識力が衰えるし、体力も弱っているし、内臓疾患だって出てきます。 犬でも同じです。 ボランティアの方が撮影された地域を特定し、助けに向かい、無事保護できたことを知ってホッとしました。 と同時にSNSの広がり方に怖さを感じました。 何の関係もない動画を見た人たちが、一部であっても飼い主に抗議をしたら、それはそれで虐待になるのではないかと。 抗議をした人たちは正義のつもりなのかもしれないけど、私は無知ゆえの正義だと思いました。 それだけでなく、あそこまでしなくても他に何か方法があったのではないか、と言っている人も多数います。 そうなると動画を発信した人の判断が間違ってた、と言っているようにも聞こえます。 私なりに過去の体験から考えてみました。 かなり前ですが、あるサイトの内容に感銘を受けて、そこの掲示板にコメントを書き込んだりしていたことがあります。 そこでは顔も知らない人たちと仲良くなって、私信メールでも時々やり取りするようになりました。 ここまでは何も問題はありません。 ある時、やり取りしているAさんからメールが来ました。 要約をすると、「Bさんが自分を攻撃してきている」、というものでした。 Bさんとも親しくさせていただいていたので、驚いて掲示板を開いてみると、多数の人がすでにBさんを攻撃していました。 書き込んだ人の中には、初めて目にしたハンドルネームの人までもいて、何が起きたのか私の方がパニックになったほどです。 書かれていることは事実なのかフェイクなのかわからないぐらいに、瞬く間に内容が膨らんでしまいました。 その時Bさんが「Aさんから直接抗議されるならまだしも、全く知らない人たちががどうして自分を攻撃してくるのかわからない」と書いてきました。 そこでハッとしました。 Aさんは私だけではなく、他の人たちにも同じメールを送っていたんだと。 それでその旨を掲示板に書き込みました。 Bさんのことを何も知らない人が、正義心からとはいえ一斉に抗議するのはいかがなものかと。 そうすると今まで抗議していた人たちは潮が引くように何も書かなくなりました。 正直な人が数人いて、自分は正義のつもりだったけど浅はかでした、と謝罪文まで書いてくれました。 すると今度は、今までAさん側に付いてBさんを攻撃していた人たちがAさんを攻撃し始めたのです。 結局その掲示板は閉鎖されました。 私のしたことも浅はかだったのかもしれません。 でも、その時の一連の出来事と現在の動画の拡散に同じものを見る思いがします。 「無知ゆえの利己的な正義」 自分は正しいと思っている確信が実は自分の魂を貶めている最大のものであり、そうした無知の正義が世の中に蔓延しているのだと。 悪意ではないので咎めることはできませんが、今一度自分の言動を確認してみる必要があると思います。 それ以上に、無知を一掃していかなければいけない、霊的真理を伝えていかなければいけない、と強く思いました。 |
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2019-02-09 「虐待事件に思うこと」 最近だけでなく、いつの時代も虐待はなくなりません。 最近のニュースを見るたびに、心が痛み、胸が詰まります。 近所でも過去に虐待はありました。 直接見たわけではありませんが、聞くとかなりひどいものだったようです。 もう40年以上も前のことですから、近所の人が警察に言っても、家庭内のことは死傷が出ない限り関与できなかったのだとか。 今もそのご両親は健在ですが、虐待を受けた子供は家に寄り付きもしません。 そのご両親と時々話をするのですが、相当の変わり者。 子供のことを訊いてみたら、良い学校に行かせてやった、今は結婚して幸せに暮らしている、仕事が忙しいから家には滅多に来ない、というようなことを言っていました。 自分が子供を虐待してきたという認識はないのかもしれません。 虐待された子供が親になって、自分もまた子供を虐待するという負のサイクルは当事者が歯を食いしばって止めなければ、痛ましい事件はなくならないでしょう。 |
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2019-01-20 「高校生の書道展」 友人がアマチュアの版画会に入っていて、版画展に行ってきました。 アマチュアとはいえ、素晴らしい作品が多かったです。 帰ろうとすると、同じビル内で高校生の書道展をやっているポスターが目についたので行ってみました。 県内の高校が団体出品しているものでした。 その高校の顧問の先生方の意向がとてもよくわかって、面白かったです。 最初に目についたのが般若心経の写経。 |
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これは素晴らしいもので、黒い紙に金色の文字で書いてありました。 これはもう師範級で、感動しました。 普通の書道展で見られるような大きな作品はなくて、ほとんどが普通の半紙に書いたもの。 あまりにも作品数が多くてびっくり。 |
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ほとんどの作品は有名な言葉ですが、中には自分で思ったことをそのまま書いている人も何人かいました。 自由に書いている人の文字は書道としては上手とは言えないけれど、個性的で面白かった。 |
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これ以外にも本当に楽しい作品が多くて、 真面目に達筆で書いてある作品より数倍目に留まりました。 個人情報の問題があるので、名前は消させていただきました。 |
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