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2017-09-25 「キラキラネーム」 キラキラネームって、いつ頃から出てきたのでしょうか。 私の両親の頃は「子」や「美」が付く名前が多かったと聞いています。 確かに叔母たちの名前を見ると、ほぼ全員「子」もしくは「美」がついています。 私が育った時代はというと、母が言うには、水商売のような名前が多いと言います。 友人たちの名前を思い浮かべて、へえ〜水商売ってこういう名前の人が多いのね、って感じでしょうか。 その次の世代になると、いわゆるキラキラネームということなんですよね。 私たちの世代に多い水商売のような名前、というとちょっと偏見が入っているように思うのですが、偏見を捨てれば きれいな名前が多いように思います。 それに、ちゃんと読めるんです。 でも、キラキラネームは当て字というか、まったく読めません。 これが問題なんだと思います。 昔は・・・なんて書くと年寄り臭いかもしれないけど、昔の親たちは こんな人間に育ってほしい、という願いを込めて名前を付けたようです。 ずっと健康でいてほしい、優しい子に育ってほしい、謙虚な人になってほしい、というように。 私の名前も両親の願いがいっぱい詰まった名前です。 そして、誰が読んでも読み間違いをしない名前です。 子供の頃は、自分の名前を漢字ですぐに書けるようになったほど、簡単な漢字構成です。 でも、キラキラネームにはそういう親の願いとか、子供への期待とかが見えてこないんです。 自分の子供は他の子とは違うのよ、とでも言いたいような、親のエゴしか見えてきません。 動機でいえば、自分が満足する名前、時には見栄も入っていたりして、子供の将来に対する思いやりなんて、みじんも感じられません。 もしかしたらですが、ファッション感覚なのかもしれません。 他の誰も付けないような名前を付けたい。 他人に子供の名前を聞かれた時に、「へえ〜こんな字 よく考えたね」、と言われたい。 そんな感じかなと思うのです。 キラキラネームを付けられた子供は、大きくなっていく過程で苦労するんじゃないかしら。 いつも、「これどう読むの?」って言われ続けて育つのですから。 これって、すごく嫌なんですよね。 友人に読み方が2通りある名前の人がいるんですけど、いつも読み方を聞かれるのが嫌で嫌で仕方がない、って言っていました。 たった2通りであってもです。 それなら尚更、「これってどう読むの?」って聞かれ続けるのって、かなりしんどいことじゃないでしょうか。 そうしたことを考えると、キラキラネームを付ける親は、子供の将来を考えていない、というと言い過ぎかもしれませんが、私はそう思ってしまうのです。 子供が将来困らないようにしてあげるのが親ならではの愛なのに、子供が明らかに名前で困るのを気にも留めないで、ファッション感覚で付けるなんて、悪意ではないにしろ、やっぱりエゴですよね。 シルバーバーチはいつも言っています。 「動機が全てです」と。 自分でしたことは、すべて自分で責任を取らなければいけません。 もし名前のことで子供が困るようなことがあれば、すべて背負ってあげるだけの覚悟を持って、子供には名前を付けてあげてほしいと思います。 |
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2017-09-11 「死ぬ時の苦しみ」 たぶん 大部分の人がそうだと思うのですが、私自身 死ぬことがどういうことなのかを真剣に考えたことがありませんでした。 特に若い時ってエネルギッシュなので、いつかは死ぬとわかっていても、実際には自分が死ぬなんてことは想像すらできないんですよね。 死ぬとは、脳の活動がなくなり、心臓が止まり、身体がだんだんと冷たくなっていって、死後硬直が始まり、それが溶けると柔らかくなって今度は腐っていく。 生きている時は 1人2人 と数えるけれど、死んで遺体になると 1体2体 と数える。 知っているのはその程度でした。 でも、さすがに家族の誰かが他界に向けてのカウントダウンが始まると、この世からその存在がなくなって行くことに得体のしれぬ恐怖を感じて身震いしたことがあります。 スピリチュアリズムを知って 死ぬとはどういうことかわかっていても、死ぬ時って痛いのかな、苦しいのかな、という思いがずっと根底にありました。 つまり、完全に向こうに行ってしまえば苦しみが無くなるのがわかっているけれど、その途中というか、他界する間際は苦しいのかな、そうでもないのかな、と思いめぐらしてきました。 知り合いの中には、割腹自殺をした人もいれば、海で溺れて亡くなった人もいます。 事故で亡くなったり、病気で亡くなったり、寿命が尽きて大往生した人など、本当に様々な亡くなり方をしています。 それで、いろいろなケースを知るにつけ、死ぬ時の感覚が痛いものなのか、苦しいものなのか、それを探ってきました。 結論から言うと、痛くも苦しくもない、意識が遠のいていくだけ、だと思いました。 その根拠はというと、私が子供の頃のことです。 祖父が居眠り運転をしていて信号無視をしてしまい、右から来た車が運転席側に思いっきりぶつかってきたことがあります。 相手の車がドアにめり込んだことで開けることができなくて、レスキューに助けられて病院に搬送されました。 祖父はその時、「痛い! 痛い!!」を連発していたそうです。 その話を聞いただけで恐ろしくなりましたが、本人の意識が戻った時、「ああ、気持ち良かった。 どこかをフワフワ飛んでいた。 お花畑があった」 と言ったそうです。 「痛い!」と叫んでいたことなど全く覚えていなくて、意識が戻ってしばらくしてから打撲したところが痛み出したそうです。 いわゆる、臨死体験というやつみたいです。 幽体離脱していたのでしょうね。 肉体から霊が離れている間は、肉体だけが痛みを感じて「痛い!」と言っていたのでしょう。 ところが、当の本人はとても気持ちよく浮遊していたのですから、そのまま他界したとしても苦しみも痛みも感じない、ということになるのだと思います。 他にもあって、遊びでお互いに首の締め合いをした友人がいて、少しは苦しかったけど、すぐに意識がふわーっとなって気持ち良かった、なんて言っていました。 海で溺れそうになった人も同じようなことを言っていました。 溺れる!という恐怖はあったけれど、すぐに意識が遠のいて行って、気が付いた時はベッドの上にいた、ということですから。 交通事故で足を切断した人もいたのですが、なぜか全く痛くなかったから立ってみようとしたけど、立てなかった、という人もいました。 雪山で凍死寸前で助けられた人は、寒さも感じなくなって、気持ちよく寝ちゃった、なんて言っていました。 総合的に考えてみると、死ぬ瞬間というか、寸前というのは苦しいどころか、気持ち良いものかもしれないと思うようになりました。 これで、死ぬことへの恐怖はかなり無くなりました。 では、なぜ死ぬのが怖いのか と考えてみると、自分というものがこの世から抹殺されてしまう、考えることも感じることも何もなくなってしまう、まるで真空状態の中に置かれるような感じがする、でもそうしたことが想像すらできない、ではないかと思うのです。 もちろん、人に依って考え方は違うでしょうが。 でも、大体が、死ぬことに関して恐怖を持つのは、死んでいく人を見ている正常な人が感じることではないのでしょうか。 目の前の人が血だらけになっている、抗がん剤で苦しんでいる、口から泡を吹いている、肺炎などで高熱でうなされている など、意外に本人は苦痛が少なくて(抗がん剤は別です)、見ている方は正常に見ているのでそう感じるだけなのかもしれないと思うようになりました。 ということで、私の中での結論としては、死ぬまでの過程で精神的に苦しいことはあっても、ほとんどの場合、身体が痛みを感じるのはホンのひと時だけ、ということです。 死ぬことより、生きている間の方がよっぽど痛いし苦しいんじゃないかと思います。 ただ、忘れていけないのは、本当に怖いのは死んだあとどこに行くか、ということですから、安易に生きているのが辛いから死んだ方がマシ、という考えは持つべきではないし、自分で死を選んではいけないです。 辛いことがあったとしても、自分に恥じない生き方、摂理に叶った生き方をしていれば、死後の世界は怖くないわけですから、頑張ろうと思います。 |
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2017-08-24 「ほぼボランティア」 私はどこにでもいるような主婦で、大した能力もないし、技術を持っているわけでもありません。 でも、パソコンは中級ぐらいだと自負してます。 その私が頼まれて教えに行くことになりました。 86歳のご婦人にです。 その方はパソコン教室に行っていたのですが、覚えるのもキーを打つのも、何から何まで若い人について行けない、ということで個人レッスンをお願いされた次第です。 中級ぐらいの私にでも教えられるレベルの方、ということです。 さて、行ってみました。 まずは、86歳とは思えないほどの知識に驚きました。 ご高齢なので、覚えるスピードは本当にゆっくりです。 でも、その方はそんなことはどこ吹く風で、パソコンに向かうのを心から楽しんでいます。 最近は、パソコンに向かっている時間よりも お話をする時間の方がだんだんと長くなってきました。 パソコンを扱うのは本当にお好きなんですけど、お話しするのはもっとお好きなようで、話し始めたら止まりません。 スピリチュアル・ヒーリングと同じで、本人にとってはパソコンを覚えるのが目的なのですが、私から見ると、話すことで心の疲れを癒しておられるように見えます。 楽しいお話なので、私もついつい引き込まれてしまっています。 私もこんなふうに歳を重ねていきたい、そう思わせてくれる素敵なご婦人のお話でした。 |
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2017-08-17 「映画 沈黙〜サイレンス」 10年ぐらい前、友人に薦められて遠藤周作さんの『沈黙』を読みました。 感動というより、その内容のすごさに、頭を抱えて考え込んでしまった本です。 その本が映画になったのは知っていたけれど、映画館で観たいと思いつつ見逃してしまいました。 それが もうレンタルで出ているなんて驚き。 友人にそれを言ったら、今はそのペースが当たり前だと言われてしまいました。 そうか、そうなんですね。 小説にかなり忠実だと思って観ていたけれど、最後は全く違っていて、監督が意図した内容になっていたかなと思います。 ハッピーエンドではないので 原作を読んだ時は後味が悪い、というより、不完全燃焼みたいな感じだったのが、映画では細部まで言い尽くされていたように思うので、原作を読んだ時より不完全燃焼的な感じは少なかったです。 宗教を背景に、日本人の当時の極貧の暮らし、逃げ出したくても逃げ出せずにそこで生きるしかない切なさ、伝道する側の思いと百姓たちの思いの違い、拷問の怖ろしさから保身に走ったものの改宗しきれない信仰心、許さなければいけないのに人間としての感情と理性がもつれる苦しみ、などなど、本当に考えさせられることが山積みです。 私はクリスチャンでも仏教徒でも、イスラムでもありません。 新約聖書は読んでいましたが、教会に足を運んだことはありません。 仏教はお葬式程度。 イスラムには全く縁がありません。 そんな私が映画の内容を自分の身に置き換えてみると、あまりの辛さに涙が滲み出てきました。 悲しみとか同情とか、ましてや喜びの涙なんかではなく、辛い涙です。 涙が止まらないとか、溢れ出てくるのではなく、じわじわ と目に溜まり続けました。 映画の書評を読むと、「弱者」がキーワードのように書かれています。 でも私が思うには、「棄教」「宗教観の違い」「許し」「敵を愛する」というのではないかと思います。 裏切られて、二度と顔を見たくないような相手でも、自分を慕って来るならば嫌でも愛さなければいけない、許さなくてはいけない・・・本当に心が切り裂かれる思いです。 そして、自分のせいで拷問にあって殺されていく村人たち。 自分が棄教すれば、その場ではその人たちは助かるけれど、別のところで また次の犠牲者が出る。 本当に底なし沼のようです。 もし自分が友人や家族に裏切られたとしたら、葛藤しながらでも私はその人を愛せるか、許せるか、大切にできるのか、守れるのか・・・ もちろんそんな現実に直面したことはないので、想像する中での答えしか出せません。 最後は原作にはない内容で、パーデレが棄教したにもかかわらず、キチジローはキリスト教の絵を懐に隠し持っていたというので捉えられてしまいました。 何とも皮肉な結果になっています。 でも、それはそれなりに意味があることだと思いました。 |
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2017-08-15 「終戦記念日に思う」 私自身は戦争のことはまったく知りません。 祖父母から聞いたり、せいぜいドキュメンタリー番組で見たりする程度です。 それでも、戦争は不幸を通り越して、どの国でも生き地獄を作り出してしまうものだと理解しているつもりです。 今日もNHKで「インパール作戦」のことをやっていました。 樺太に関しても、知ってみると本当に恐ろしいの一言です。 上層部が立てた作戦で、日本兵がことごとく無残な死を迎えざるを得なかったのを知って、言葉が出てきませんでした。 人間を単なる駒としてしか見ていなかったことに対して、上層部に対する怒りと、兵隊たちの苦しさや無念を思うと、どうしようもない思いに駆られました。 母は戦後生まれなので、当然 戦争のことは直接知りません。 でも、子供の頃、大きな駅とか動物園で白い着物を着て、片腕や片足を失ってしまった傷病兵がお椀を持って立っているのを何度か見たことがあると言っていました。 障害の体になってしまっては、働くこともままならないので、街頭に立っていたのでしょう。 祖父は昭和の初めに生まれた人で、年齢的にギリギリで兵隊になった人です。 その祖父に母が、「あの人たちは何?」と聞いたら、「見るな!」と言われたそうです。 「どうして見ちゃあいけないの?」と聞いたけれど、祖父の険しい顔を見たらそれ以上何も言えなくなってしまった、と言っていました。 私も祖父に戦争の話を聞きたい、とせがんだことがあります。 「忘れた」、と言って何も話してくれませんでした。 脳裏に焼き付いて離れないほど残酷な状況を通ってきたから言えなかったのだと、やっとわかるようになりました。 母は戦後まもなくして生まれたけれど、世の中はまだまだ戦争の名残があったようです。 戦争は悲惨な状況しか生み出さない、というのがわかっているにもかかわらず、同級生の男の子の中には戦車やゼロ戦の絵をかいて喜んでる子がいたそうです。 戦後まもなく生まれた人でさえ戦車やゼロ戦にあこがれを持つぐらいですから、今の若い人たちが単純に“やっつけてしまえばいい”、という発想をするのは仕方がないのかもしれません。 本当は それではいけないんですけどね。 とにかく、戦争はいけない、そう強く思う終戦記念日でした。 |
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2017-08-13 「草取りをして思ったこと」 ずっと気になっていた草取りをしました。 お天気が良いと暑さにめげてしまうので、曇りの日にしか草取りはしません。 ラッキーなことに、昨夜雨が降ったおかげで、草が気持ちがいいほど するする抜けました。 シルバーバーチは要所要所で「自然の中から学びなさい」と言っています。 この草取りから何か学べることがあるんだろうか、と考えてみました。 草は抜いても抜いてもすぐに生えてきます。 特に、ドクダミとかチガヤなどは根っこが深いところを通っているので、適当に引っこ抜くと根が残ってそこからまた生えてくる。 なんだか、仏教のお坊さんの頭と同じに思えてきた。 確か、頭を剃るのは自分に煩悩があることを認識するためだと聞いたことがあります。 剃ってもまたすぐ生えてくる。 これこそ煩悩と同じだ と。 煩悩という点では、草も似ているけれど、どんどんと生える草は本当に厄介者。 でも、ドクダミは体内の毒を輩出する、ということで漢方薬として売られています。 雑草と思っているのは、実は自分にとって都合の悪いものであって、たとえそれが薔薇であっても嫌いなら雑草になり、好ましいものは大切に育てるわけですよね。 全ては人間の好み次第というところでしょうか。 自然の物には善も悪も存在しない。 全ては人間の都合によって決まること。 そんなことをつらつら考えながらの草取りでした。 |
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2017-07-23 「やっと平常に戻ったので」 気にはなりながらも、前回アップしてから半年も過ぎてしまいました。 地上で生きていれば、人生にはいろいろとあるものですね。 地上は時間との闘いであるし、物理的な出来事をこなしていかなければいけません。 「身体が2つあったらいいのに」という言葉をよく聞くけれど、まさしくそんな感じでした。 まあ、それやこれや、私を物理的に縛り付けていた忙しい要因がなくなったので、なんとかホームページを再開できることになりました。 久しぶりに、ネット上に出ている「スピリチュアリズム」のサイトやブログにざっと目を通してみました。 いつも思うのは、文章が難しいなあ・・・と感じてしまいます。 私の理解力が乏しいのか、活字を読むのが苦手なのか、いわゆる世間でいうところの頭が悪い部類に属するのか、とにかく難しいと感じると読みたくなくなってしまうのです。 まあ、これは単純に好みの問題なんですけどね。 人が霊であるならば、霊的真理は特別なものではなく、誰もが理解できて、誰もが体験し、実感しているものだと思うのです。 違うのは、どのあたりの体験をしているのか。 霊的真理というものは、魂が覚醒した人だけ理解できる有り難いものではないと思っています。 誰もが実感しているのに、当たり前すぎて認識できない人たちに認識してもらい、魂が覚醒するお手伝いが出来たらと思っています。 そんな思いを持って、ホームページ再開します! |
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2017-01-16 「年末年始」 新年がやってきたと思ったら、はや1月も半分過ぎてしまいました。 一年が過ぎるのは本当に早くて・・・というのは誰でもが口にすること。 ということは、ほとんどの人が感じていることなんですね。 昨年末にふと考えました。 年末年始と地上から霊界への移行ってよく似てるなあって。 そうは思いませんか? 年末になると、1年の締めくくりとして大掃除を行います。 年末だからやるというのではなく、常に掃除をしていれば大掃除なんてしなくてもいいのに、と思いつつ、やっぱり私も12月になるとリストを作成したりして大掃除をします。 掃除をしながらふと思いました。 毎年のように大晦日を迎え、元旦を迎える。 大掃除をしてもしなくても、大晦日はやって来るし、時間が過ぎれば元旦になる、ってね。 これって、人が自分の人生を終えて次の霊的生活に入っていくのとすごく良く似ていると思ったんです。 人は歳をとると過去を振り返り、自分の一生って何だったんだろうと考えます。 今まで頂いた手紙を読み返して思い出にふけったり、もしあの時、もしあの時ほかの仕事に就いていたら・・・など等。 自分の人生をもう一度見つめ直し、良かったことや反省すべき点を考え、物質もあれこれ処分したりします。 そして、やがて肉体の死を迎え、新しい霊的生活へと自動的に移行していきます。 やっぱり、「人生の締めくくり」 と 「年末年始」 はよく似ています。 ただ違うのは、新年を迎えるのはお目出たいことで、死を迎えるのは不幸なことだと思われていること。 でも、霊的真理がわかってみれば、誰でも死を迎えるし、死を迎えるのは新しい生への旅立ちなので、やっぱりお目出たいことなんですよね。 |
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