スピリチュアリズム


2016
 
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2016-11-29 「自分を発見」

ちょっと変なタイトルでしょうか?

人と対する時にできるだけ心がけているのは、聞き役に回ることです。
話すのが苦手ということもあるけれど、相手がどんな人で、どんな考えを持っているのかを知りたいんです。

聞き役というのは周りからしたら結構便利な存在のようで、私を含めて3人で話していると、いつも決まった現象が起きます。

それは、他の2人がそれぞれに私に向かって話してくるということです。
この2人はお互いに話そうとはせず、私にだけ話してくるのです。
それも、私の意見を求めているのではなくて、ただ話したいだけなので、私はそそれに合わせてフンフンと聞いているだけです。
もちろん話に共感するところがあれば、それを伝えます。

まあ、そんなのがわりと日常茶飯事なんですが、ある日、逆の状態になったことがあります。

その日は他の人の話していることが全く耳にに入ってこなくて、いつもとは逆に自分の方が話したくて話したくて仕方がない、というものでした。
これには自分で自分に驚きました。

そこで考えたことは、「これは何か変だ。 いつもの私じゃない。 周りの人が何を言っているかを理解できないなんておかしい。」 

そう思った途端、スーッと吹っ切れていつもの自分に戻りました。

いったい何だったんでしょう・・・?

憑依? カルマ? とにかく良からぬ状態だったのは確かです。
どなたか説明できる方はいらっしゃるでしょうか。

2016-1-22 「ガンになる人、ならない人の追加」

先回 「ガンになる人、ならない人」 を書きましたが、今回は足りなかった部分というか、間違えられそうなところを付け足したいと思います。

シルバーバーチは、「 ガンになったということが、どこか摂理に反したことをしていたことの証明です。」 と言っています。

この内容だけ読むと、ガンになる人は大きなカルマを背負っている人で、大きなカルマを背負っている人は悪い人、という変な理屈に発展しかねません。
そういう間違った理解をしないために、付け加えておかなければと思いました。

地上にいる人間は、大なり小なりカルマがあります。
なにせ、シルバーバーチいわく、「地球と呼ばれている惑星はこの大宇宙に存在する無数の惑星の一つに過ぎません。 しかも、地球より劣っている天体は一つあるだけです。
つまり、惑星の中で下から2番目ということらしいです。

世の中を見渡してみると、確かに地球は進化のレベルが低いと思います。
世界のあちこちでは、いまだに内戦が続いているし、ISも酷いことをしていますし、人種差別やいじめがなくなる傾向が全く見られません。
動物保護を訴えかける半面、肉食のために屠られる動物もどんどん増えています。
地球はまだまだ自分の利益優先の人だらけです。

話をカルマに戻します。
カルマとは、前の生のマイナス要因で、解消されずに持ち越してきているもの、とでも言えばいいでしょうか。
すべての出来事は、因果律によって起こるべくして起こっているということです。

カルマがどんな形で現れるかというと、ほとんどが苦しみとして感じるものだと思います。
ただし、その苦しみと現象の大きさは比例しません。
小さな出来事でも大きな苦しみを感じる人もいれば、大きな問題でもさほど苦しいと感じない人もいます。

地上で生きている人は例外なく、100%の人が何らかのカルマを背負っているのですから、カルマがあることを悪の根源のようにとらえてしまうと良くないと思うのです。

苦しい状況に陥った時、降りかかった問題(カルマ)をどう対処して乗り越えていくかが成長のカギでもあるし、カルマの解消でもあるわけです。

霊的真理を理解し、何事にも誠実に向き合い、愛と理性で判断して実行していきたいと思います。

2016-11-13 「ガンになる人、ならない人」

私の知り合いには、ガンを患っている人が数人います。
その人たちと会うと、当然のことですが、ガンを治す食材はどんなのが良いかとか、何年生存できれば完治したと言えるか、という話題が進行します。

ガンを治す食材を信じて摂っているなら不安は無くなるはずなのに、本当にこの食材でいいのかなどと疑心暗鬼もし、次の検査まで不安で仕方がないと言います。

常に死と向き合った生活なので、頭の中に 「死」 という一文字がこびりついて離れないようです。

それはそうですよね。
お察しします。

霊的真理を知っている私たちから見ると、死は決して怖いものではないし、本来のあるべきところへ帰って行く時だということがわかります。
でも、それは死に直面していなくて、冷静に見渡せる視野を持てているからこそ言えるのかもしれません。
そういう視野が持てるのは、霊的真理を知っているからなんでしょうが。

ガンになる原因はいろいろあるらしいですね。
生活習慣、栄養バランス、ストレス、遺伝・・・など、いろいろ。

ある一人の友人は甘いものが大好きで、コーヒーには必ずスプーンで山盛り3杯は砂糖を入れます。
甘いお菓子も大好きです。

その友人はいわゆる肥満で、一生懸命ダイエットをしているのに一向に痩せないと、いつも口から愚痴がこぼれるのです。。
その愚痴を聞くと、それはそうでしょ、と言いたくもなります。
肺ガンの人がタバコを吸いながら、肺ガンになったと不安をこぼしているようなものですから。
もちろん、そんな心ないことは言いませんが、心の中では思いっきり思っているんです。

その肥満の友人にガンが見つかりました。
子宮ガンだそうです。
「どうして私が・・・何も悪いことなんてしてないのに・・・」 と涙ながらに電話をしてきました。

一通り話を聞いてから、「甘いものをやめたらどう?」 と言ってみると、減らしていると言っていました。
どれぐらい減らしているかと聞いてみると、コーヒーの砂糖を3杯から2杯に減らしたそうです。
それも時々。
もちろん数字上は減らしたには違いないけれど、大して変わりないんじゃないかしら。

一気にやめるとストレスでガンが余計に進行するから、少しずつ減らしていけばいいと医者に言われたようです。
お菓子もあまり食べなくなったと言うから、「今はどれぐらい食べているの?」 と聞くと、前よりは少なくなった気がするけれど、それでも相当量を食べているように聞こえました。

思い余って、「本気でガンを治そうと思うなら、今すぐ砂糖を全部やめなさい。 砂糖をやめずにガンを治そうなんて無理!」 と言いそうになった口をつぐみました。

なぜかというと、ガンを治すには、そういうことをしたぐらいで治るものではないからです。

シルバーバーチは次のように言っています。

―― ガンになったということが、どこか摂理に反したことをしていたことの証明です。―― 

ガンになると、死に直面することになります。
そして、ガン患者の話を聞いていると、共通したことが見えてくるのです。
それは、自己中心の考えとか生活をしているということ。

こんなに苦しいのに、家族はこの苦しみをわかってくれない、周りもわかってくれない、分かるというけど、それは同情しているだけ。
分かるのは、同じガン患者同士だけ、ガンになってない人にこの苦しみと不安がわかるはずはない・・・と泣きながらずっと言い続けるのって、どうでしょうか。

完全に悲劇のヒロインになっています。
私から見たら、自分のことしか考えてないのは周りではなく、その人自身。
自分の苦しみにどっぷりつかっているから、自分のことしか見えなくなっているのでしょう。

では、摂理に沿った合った生き方とはどんなものなのでしょうか。

自分のことを忘れて、他人のことに一生懸命になる。
それも、心の底から、本質的に、人格的に、全面的に、ということになるのだと思います。

人の役に立つ喜びを知っている人、利他愛が当たり前になっている人は、絶対にガンにはならない、といっても過言ではないと思います。

ガンになりたくないからボランティアをする、ガンを治したいから誰かを助ける、というのは動機が不純だから摂理通りの生き方ではありません。

他人に尽くさずにはいられない人、人に尽くす方がエネルギーが湧いてくるという人、周りが幸せにならないうちは自分も幸せとは言えないという人はガンにはなりません。

こんな経験はないでしょうか。
体調がすぐれない時に来客があったりすると、接待している間は体調不良が気にならなくなっていた、という経験。
場合によっては治ったりすることもあります。
「情けは人の為ならず」 です。
これはすばらしい格言ですよね。
他人のために我を忘れて一生懸命になると、自分が一番救われるというのが摂理なのですから。

ガンとか難病はカルマということでもありますから、結局は、摂理通りに生きていない、摂理通りに生きてこなかった、ということに尽きると思います。
つまり、ツケを払っているわけです。

摂理通りに生きるには、まず真理を知らなければできないこと。
ただし、知ったとしてもすぐにできるものではないから、難しい道なのかもしれません。

2016-07-24 「待つという苦しみ」

子供の頃には思わなかったことの一つに「待つ」ということがあります。
人生って、待つことの連続のような気がしてきました。

入試の結果を待つ、就職の知らせを待つ、プロポーズの返事を待つ、家族の帰りを待つ、などなど。
考えてみれば、人生って待つことの連続ではないですか。

それも、待つこととストレスは直結しているようにも思います。
結果を待っている間は、疑心暗鬼したり不安に思ったり、はたまた糠喜びしないように気持ちをセーブしたり。

この「待つ」という試練の中で、結果が一つしかない場合もあります。
それは「死を待つ」ということ。

生きる望みが数パーセントだったとしても、希望を捨ててはいけないと思いつつも、何らかの結果が出るまでは生きた心地がしないでしょう。

生存率がゼロというなら、諦めるという方法もあるけれど、そうでない場合はとてもつらいと思います。

それと、必ず他界するとわかっていても、それがいつなのか、あと1か月なのか、それとも1年はもつのか。
そういう場合も本当に辛いものです。

例えば、脳卒中とか熱中症などで身体に大きな影響が出て、身体障害になってしまったとか、認知症やアルツハイマーなどになった場合は、この上なく恐ろしい経過を待たねばなりません。

実は、私の祖母がその一人で、高齢の上に腎臓を患っているので、寝たきりになってしまって、自分の身の回りのことすらできなくなっています。
本人の意識ははっきりしているので、胸の内を聞いていると辛くなってきます。
とにかく安楽死させてほしいとばかり言うのです。

もう自分は誰の役にも立てない、それどころか、多くの人の手を煩わせて生きている、こんな人間が生きていてはいけない、早く死なせてほしい、自分にはどんなカルマがあるのだろう、ただただ馬車馬のように働いて働いて、誰の迷惑にもならないように生きてきたのに、と毎日のように言うのです。

もし自分だったら・・・
寿命を待つしかないけれど、やはり辛いだろうなあ・・・

結果がいつ出るかを待つ苦しさは、地上人生の最後の最後まで続くものなのですね。

2016-06-26 「見えていると思っていたら」

私はどちらかというと視力は割といい方で、パソコンを使う時以外は眼鏡もコンタクトもしていません。
思い込みというのは怖いもので、自分は視力が良い、と思っていたことがとんでもないものを見ることになってしまいました。

免許の更新に行った際の視力検査で、もしかしたら自分はあまり見えてないんじゃないかという不安が出てきました。
免許の視力検査は、度数は教えてくれません。
あくまでも運転に差しさわりがあるかどうかの判断のようです。

とりあえず眼鏡屋さんに行ってみました。
視力は何と、両眼合わせて0.8!
ウッソ〜〜〜〜〜!!
今まで両眼合わせて2.4だったのに、気が付かない間にこんなにも悪くなっていたなんて・・・ショック!
免許の更新はギリギリで受かっていたのね。

家に帰ってからしばらくどうしたものかと考えていたけれど、このまま放っておいてはいけないと思って、眼鏡を作ることにしました。

眼鏡ができたので家の中ではめてみると、怖ろしいものが次々と見え始めたではないですか。
家の隅のホコリの集団。
台所の水回りの黒ずみ。
食器に残っている水アカ。
洗濯で洗いきれなかった汚れ。
その他、もう本当にありとあらゆる物の汚れが見えてしまいました。
見えていると思っていたのに、見えてなかった現実を見て驚愕です。

物質でさえこんなにショックを受けるのだから、もし霊的な目で見えてない人があちらへ行って見えてしまったら・・・
私が味わった以上の大ショックに襲われるんだろうなあ。

それ以上に、いま見えていると思っていても、それは思い込みで、もしかしたら見えていないことの方が多いのかも。

自分は見えていると思っている人は、要注意です。

2016-06-16 「因果応報」

舛添さん、ついに辞任に追い込まれてしまいましたね。
政治手腕があった人だけに、残念でなりません。
でも、これも因果応報。
自分のしでかしたことを自分で刈り取ることになっただけのことです。

世間の反応を見ると、舛添さんが頑張っていた時は、総理大臣にしたい人ランキングに入れていたぐらいなのに、いざ問題が出てくると、みんな一斉に背中を向けてやり玉に挙げたのを見て、世の中は何て残酷にできているんだろうと思いました。

しかし、この刈り取りが今世で行われたことは、ラッキーだったと思います。
もし、やっていたことが表面に出ずに、甘い汁だけをすすってこの世を去ったとなると、次の生でどれだけのことが返ってくるでしょう。
それを思うと、他人事ながら恐ろしくなります。
発覚して本当によかったと思います。

今後、しばらくは家族全員が針のムシロでしょうが、それもそう長くは続きません。
霊界で罪を償うより、今生きている間に償う方がずっと短い期間で済みます。
今回の一連の出来事に対して、私は舛添さんの守護霊の導きを強く感じました。

2016-04-20 「熊本地震に寄せて」

熊本地震の速報を聞いて、東北の地震の時のことが思い出されました。
私が住んでいるところが地震に遭ったわけではありませんが、当時の悲惨な状況は本当に心が痛くて、いくらテレビの映像とはいえど、しばらくは直視できませんでした。

今回の地震もそうで、まだじっくり見ることができません。
家族や大切な友人を失った人たち、家を失った人たちの今後を考えると、本当に胸が痛くてなりません。

今はまだ、命が助かっただけでも良かった、と思っていても、しばらくたつと経済的な現実が嫌でものしかかってきます。

ただでさえ、下流老人とか、老後破産、子供の貧困、経済格差、などという言葉が飛び交う時代です。
その中で、経済の基盤を失うことがどれだけ大きなダメージを受けてしまうものなのかを考えると、他人事とは思えないのです。

では、こういう天災をどう考えたらいいのでしょうか。

亡くなられた人ですが、その時は恐怖でいっぱいだったでしょうが、ふと気が付いてみると、とても楽で、穏やかな世界にいることでしょう。
もちろん個人差はあって、生きていた時に霊的真理を知っていたかどうかで、穏やかな世界に移行できる期間が変わるようです。

霊的真理を知っていた人は、割と早く死の自覚ができ、それにつれて死後の世界になじむのも早くなるようです。

ところが、全く認めなかった人は、自分が死んだという自覚さえなかなか持てずに、ずいぶん暗い中で過ごさなければならないようです。
その暗さは、自分が死んだという自覚が持てるまで続くようです。

私が気になるのは、亡くなった方より残された人たちのことです。
慣れない不便な生活が続くと、誰でもナーバスになります。
守ってやれなかった責任、目の前で起きたことが目に焼き付いて離れない、思い出ばかりが蘇ってさらに悲しみを誘います。
生き残った人の苦しみは、大なり小なり、一生付きまとうのではないかと思うのです。

でも、これを霊的に見たら、どう考えるのが良いのでしょうか。

「地上という所は成長するところである」 ということを外してしまうと、物の観方、考えに偏りが出てきてしまうと思います。

地上というところは、良いことも悪いこともいろいろ体験して、全てを自分の魂の成長の糧にするのが大切だと思っています。

悪いことに遭遇したからと言って、それが本当に自分にとって悪いことではなく、その体験から何を学び、誰かの役に立てれば、自分にとって悪い状況がすべて良い出来事に替えることができるのです。

東北の震災の時、みんな疲弊していて、自分も被災した身でありながら、周りの人たちを勇気づけた学生さんたち。
多くの人がおにぎりをもらう為に並んでいたのに、配る側に回ったり、何が足りないのか、何が必要なのかを聞いて回って役所に人に知らせたりしていた人たち。

残されたペットを保護して飼い主探しをしてくれた人たち、がれきの撤去や後片付けを手伝ってくれたボランティアの人たち、炊き出しをして多くの人たちの心まで温かくしてくれた人たち。
他にも、困っている人の役に立とうと一生懸命頑張った人がたくさんいました。

とにかく、どんな状況にあっても、他人の役に立てるかどうかが霊的人生の分かれ道になるように思います。

2016-03-26 「霊的真理を知ると人生が変わる」

最近とみに気になることがあります。
それは、ドラマでもニュースでも同じだけれど、家族や友人が亡くなって悲しむ人の場面が多いこと。

以前はそれほど気にならなかったけれど、最近はテレビなどで見るたびに気になります。

愛する人が自分の目の前から突如消えてしまう。
もう手で触れることも、ハグすることもできない。

そうした気持ちは痛いほどわかるけど、それは地上に置き去りにされた自分を悲しんでいるのであって、他界した人を心配して悲しんでいるのではないように思います。
つまり、悲劇の主人公になってしまっているわけですね。

私は、亡くなった人はそれほど可哀想ではなくて、肉親を失って悲しんでいる人の方が可哀想にと思います。

でも、時には他界した人を可哀想にと思うこともあります。

犯罪、それも重罪の人が行く先は誰もが想像できるけれど、普通に生きてきた人たちの行く先を心配する人は少ないと思います。

あの人は地上にいた時は自分勝手な生き方をしてきたとか、容姿に捉われる人生だった、財を成すことに人生を費やした、など。
仏教でいえば、煩悩まみれに生きた人たち。
そういう人たちの死後を思うと、本当に心配になることがあるのです。

つまり、魂が開花せずに、カルマを清算するどころか、さらに増やして死んでいった人は本当に可哀想だと思います。

こうした人生の行き先についての書物なども出ていますし、私もいつかは短編小説に書きたいと思っています。

人が不安を持つのは、先がどうなるかわからないからです。
ドラマでも、先がどうなるか予想が付く時は不安がないし、楽しんで見ていられるものでしょう。

でも、霊的真理は死後の実態を教えてくれています。
先がどうなるかわかれば、不安はたちどころに消えてなくなります。
人は、「肉体は死んでも霊は永遠に生きる」、ということを知っているだけでも、気持ちはずっと楽になるのではないでしょうか。

知っているのと知らないのとでは、本当に大きな差になるものです。

2016-03-16 「神と波長を合わせる」

友人と2人で、簡易読書会を開いています。
開いているというほどのものでもないけれど、読んでお互いの感想を言ったり、理解しにくいところを話し合って理解を深めている、という感じです。

今日読んだのは 「シルバーバーチの第2巻10章」 で、話が深まってなかなか先に進めなかった箇所がありました。
p169です。
祈りとは波長を合わせることです。
すなわち、私たちの意志を神の意志と調和さえることであり、神との繋がりをより緊密にすることです。
シルバーバーチの霊訓の中には “祈り” について書いてあるのが時々見受けられます。
でも、私はこの箇所をもっと深く理解したい、つまり、波長を合わせるとはどういうことか、どうしたら波長を合わせられるか、自分たちの意志を神の意志と調和させるとはどういうことなのか、などなど、友人に聞いたのです。

友人の答えとしては、
「神の願いがわかれば、おのずと答えは出てくる」 でした。

神の願い・・・
それは、人間が摂理に沿い、魂が成長できる生き方をすること。
先に霊性が開いた人が、いまだ開いていない人の開花のお手伝いをすること。

友人の説明はだいたいこんなんでした。

祈りに関しては、神と同じ願いをもって、それを目標として祈ることで、波長が合うんだとか。
波長が合う祈りができると、とても心地よくて、神と一体感が出るらしい。

シルバーバーチが地上に降りて語ったことの中心は、多くの人の魂が開花するために真理を伝えること。
地上では、地上の人間の方が有利なこともあるから、それを選んで実践していくのが望ましいとも言ってました。

そして、成長させるためには善いことも悪いことも全てが連動して起こるから、つまり、必然的にカルマを清算しながら成長するしかないから、そこを外しては考えられない、とも言っていました。

なるほど、

でも、私、ちゃんとその道を歩いているんだろうか。
それが一番の難問かも。

2016-03-10 「訪問伝道者」

家にいると、時々、訪問伝道者が訪れます。
霊的真理を知っていると、本当にこんなことを信じているんだ、と呆気にとられることもあります。

今日がまさしくそうでした。
この新聞を読んでください。
そうすれば成仏できますから。」
成仏って?」
死んだお顔が白くて、とても安らかになるんです。」
あなたは、何を信じているんですか?」
私が信じている方は、仏様より上の方です。」
仏様より上って、どうやって証明できるんですか?」
それをお話ししてくれているDVDがありますから、見てください。」
本人はいたって真面目。
でも、話を聞いていたら、なんともイライラしてきてしまって、平静を装うのが精いっぱい。
自分自身に、冷静に・・・冷静に・・・と言い聞かせていると、
多くの願い事も叶うんです。」
それって、ご利益宗教ですよね。」
いえ、仏さまがそのように取り計らってくださるんです。
もう一度生まれ変わることもできます。
とにかく、DVDを見てください。」
申し訳ないけれど、私はスピリチュアリズムを学んでいるので、ご利益宗教には興味がないんです。」
だったらDVDを見てください。
そうすれば分かりますから。」
私の言うことには一切耳を貸さないだけでなく、自分が言いたいことだけを言ってました。
でも、それは熱心な証し。

その方が帰られてからしばらく考えてしまいました。
自分が信じていること、自分が救われたと思える真理だからこそ熱心になるのはわかるけれど・・・

ふと、三浦綾子さんを思い出しました。

彼女は戦前教師をしていて、本当に熱心に子供たちに勉強を教えていました。
ところが、戦争が終わってみると、国語の教科書の大半を黒で塗りつぶすようにとのお達しが出たのです。

かつて自分が正しいと信じて熱心に教えてきたことのほとんどが塗りつぶされていくのを見ていたら、自分が今までしてきたことは何だったのだろう、と考えざるを得なかったそうです。

2016-03-03 「アメリカ大統領選」

今アメリカでは、政治にかかわったことがない人が大統領に立候補して、相当の支持を得ています。
日本人は客観的にアメリカを見ていられますから、トランプ氏が大統領になったらとんでもないことになるのじゃないか、と思っているいる人がほとんどでしょう。
もちろん、アメリカ人でさえ、今の大統領選を危惧する人はたくさんいるようです。
中には、「アメリカの恥だ」 と言った人もいました。
その思いはよくわかります。

トランプ氏を支持する人たちは、生活苦のために目の前のパンが欲しい人たちなのでしょう。
目の前のパンは食べてしまえばそれで終わりです。
しかし、数時間すれば、またお腹がすきます。
そして、またパンを求めて右往左往します。
これでは、いつまでたってもパンを求め、パンが無くなるとパンをくれる人を求めて生きていくことになります。

そういえば、日本ではこういう話をした総理大臣がいました。
そう、小泉さんです。
懐かしい名前ですね。
あの有名な 「米百俵の精神」 の話は、聞いていてすごく納得させられた記憶があります。
明治初期、きびしい窮乏の中にあった長岡藩に救援のための米百俵が届けられました。
当座をしのぐ為に使ったのでは数日でなくなってしまいます。
しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として生かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。
その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。
今の痛みに耐えて、明日を良くしようという 「米百俵の精神」 こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか。
この「米百俵の精神」は、霊的視力・・・とまでは行かないけれど、近いものだと思います。
目先の利益とか、目先の平和を求めたら、そのあとで回ってくるツケに対して、人はどう対処するのだろう。

やはり、地上では摂理を基準にして、永遠という観点から見て判断していかないと、大変なことになりかねません。

今のアメリカの窮状はわかるけれど、目先の利益を第一に求めるような投票だけは避けてほしいと願うばかりです。

2016-02-26 「心と脳のアンバランス」

いつの世も、人間がそこにいる限り、多くのトラブルが発生します。
自分の非に気が付かない人は仕方がないとしても、頭では分かっているのに、罪悪感を感じていない人も存在します。

最近何かと話題になっている国会議員の不倫問題。
奥さんの妊娠中から不倫が始まって、出産後も続いていたとか。

その話をしていたら、友人がぽつんと一言、
「私ねえ、あの議員さんの相手の女の人の気持ち、よくわかる。
 悪いことをしたという自覚がないのよ。」

彼女も以前不倫をしたことがあって、全く同じ状況だったという。

奥さんがいるのがわかっていながら、不倫に走り、その後、奥さんが妊娠したことに腹を立てたこともあったとか。
それ以上に驚いたのが、彼女と奥さんは友達関係だったらしい。

そ、そんな芸能界のようなことって、本当にあるんだ。
もう、ビックリ!
でも、ビックリしたとは言えずに、ただ黙って聞いていたんだけどね。

彼女が言うには、自分が何をしているのかはよくわかっていたし、それが悪いことだというのもわかっていた。
でも、なぜか罪悪感が全くなかった、というのだ。
それも、この10年間、ずっと感じてこなかったという。

ところが、国会議員の報道が出て、酷いバッシングを見て、やっと自分も同じことをしていたんだ、と気がついて、罪悪感が少しだけ芽生えた、ということです。

交通事故を起こしておきながら、相手が悪いと言う人とか、人の物を盗んでおきながら、盗まれる方が悪いという人もそうなのかもしれない。
クラスメートをいじめておきながら、いじめられる方が悪いと言っている人もそうなのかもしれない。
もしかしたら、あの酒鬼薔薇少年だって・・・

よくよく考えてみたら、私にもそういうことがありました。
母親に心配をかけておきながら、心配されるのは鬱陶しいと言ってしまいました。
今頃になって、申し訳ないことを言ってしまった、と反省している。

地上で生きていることは、未完成人間を意味していることだし、修正しなければいけないことが山積みということ。
1つ1つ、気が付いたことから修正していかなければ。

2016-02-21 「怖い夢」

楽しい夢ばかりならいいけれど、今朝はちょっと怖い夢を見た。 
          
何気なく鏡を見ると、頭の左側、髪の毛が半分ない。
それどころか、頭蓋骨に大きな穴が開いているので、脳が露出している。
それも、血が全体に滲み出して赤くなっている。
でも、痛くもなんともないから不思議だった。
とりあえず、病院に行かなくっちゃと思ったけど、脳が露出したままではタクシーにも乗れない。
下を見たら、髪の毛が付着したままの頭皮が・・・
それを拾って頭に乗せて、いざ自分で車を運転して病院へ。 
頭皮は歪んで乗っているに違いないけど、今はそんなことどうでもいい。
病院に向かう途中で急ぎの仕事のことを思い出したので、急きょ仕事場へ。
見た目はきっと異様なはずなんだけど、頭皮が歪んで乗っていることに誰も何も言わない。
むしろ、誰も気が付かないように見える。
          
というところで目が覚めた。

どんな事故で脳が出たのか、頭蓋骨はどうして無いのか、など、突っ込みどころはいろいろあるが、後味がすっきりしない夢だった。
夢というのは、正しいことを伝えきっていないから、左右されてはいけない、というのはよくわかっているけれど、さすがに今朝は考えさせられてしまった。
潜在意識の何かの部分が出たのだろうか。

う〜ん、これ以上考えるのはやめよう。

2016-02-18 「猫ブーム」

最近は、空前の猫ブームらしい。
ウチにも猫がいて、よく犬と比較される。

猫好きな人に猫の魅力を聞いてみると、「マイペースだから」 という人もいれば、「ツンデレがたまんない」 「犬のように媚を売らないから」 という人もいる。

私はどちらもよくわかんない、というのが正直なところ。

じゃあ、私は猫のどこが好きなのかと考えてみた。
そうねえ、まずは、抱いた時の柔らかさかな。
生きているぬいぐるみ、と言えるほど “くにゃくにゃ”。
あのくにゃくにゃ感がたまんないんです。

それと、フォルムというか、シルエットというか、絵になるんですよね。
しぐさもたまんないです。
何もしないでも何時間でも見ていられるほど、絵になるシルエット場面が多い。
いわゆる食後に顔を洗うしぐさとか、向こうに歩いて行く猫を呼び止めた時に振り返った形とか。
猫じゃらしに反応する猫の手とか。
猫独特のしぐさは、本当に美しいと思います。

あとは、しつけをしなくてもちゃんと猫砂で用を足してくれるから、手間いらず、というところは便利かも。

散歩に連れて行かなくてもいいとか、臭いがない、というのもいいですね。
ただ、爪とぎにはご注意。
猫の爪は定期的に外爪がはがれて、中から尖った爪が出てくるんです。
それを知らずに猫じゃらしで遊ぶと、千枚通しのように足にガシッと突き刺さったりするので要注意。
もちろん、家具とか柱とか壁で爪とぎをするので、爪を切り忘れたりするとあちこち傷だらけになります。

犬は猫っ可愛がりするといけないけれど、猫はどれだけ猫っ可愛がりしても大丈夫。
どれだけ甘やかしても大丈夫。
それも好きな点かも。

じゃあ、犬は嫌いなの? って聞かれます。
いえいえ、ウチには犬もいます。
犬も大好きです。
でも、猫と犬では好きの種類が違うんですよね。

犬は生活のパートナー、そして、猫は愛玩なんです。

しかし、残念なのは、犬も猫も寿命が短いこと。
私より遅く生まれてきたのに、私より早く年を取り、私より先に逝ってしまうのですから。
分かっていても切なくなります。

この犬や猫との共生を通して学んだことはたくさんあります。
神様が与えて下さった犬や猫は、本当に多くのことを教えてくれています。
特に愛するということ、愛されることの大切さ、生命というものを具体的に教えてくれています。
神様からのプレゼントに心から感謝です。

2016-02-15 「裏切る」

誰でも “嫌いな言葉” の1つや2つはあると思います。
私が一番嫌いな言葉は、「裏切る」。
辞書には、
1. 味方にそむいて敵側につく。
2. 人の信頼にそむく行為をする。
3. 期待や予想に反する。
この言葉の本来の意味はともかく、知人の中にやたらと 「これは裏切り行為だ!
アイツは我らを裏切った。」 と言う人がいるのです。

私は、信頼関係があるにもかかわらず、悪意を持って、わざと信頼を欠く行動をすることが 「裏切り行為」 だと思ってきました。
つまり、映画じゃないけれど、「敵に寝返る」 ことこそが裏切りそのものだと。

それをベースに考えると、悪意がなく、たまたまその人の期待に沿えなかったことは裏切り行為ではないと思うのです。

勝手に期待しておきながら、その期待通りにいかなかったといって、その人が裏切ったと言えるのでしょうか。
善意でその人のために行ったのに、愛で応えようとしたのに、意に反した結果だったからと言って 「裏切られた」 と言うのは、なんか変です。

そうか、私が嫌いなのは一般的な言葉ではなく、その人が使っている言葉なのかもしれません。

2016-02-13 「魔がさすと・・・」

ホンの一瞬、間がさしたために、人生を狂わせてしまった。
なーんてことは、いつの時代でもよくあること。
覚せい剤とか麻薬、不倫、万引きなんかは、その最たるものだろうと思います。
挙げ始めたらもっとたくさん出てくるでしょう。

魔がさすほどではないけれど、ホンのいっ時の気の緩みなんかは同類かも。
運転中にケイタイを使ったり、ちょっと粋がって無理な追い越しをしたら事故ってしまって・・・
小さな事故なら良いけれど、場合によっては人生を棒に振ることだってあり得ます。

カルマだから必然的に起こることなんでしょうけど、誰かを巻き込んでしまったら、悔やんでも悔やみきれないです。
なんせ、その人の恨みを、一生背負い続けなければいけないのですから。

自己コントロールの力が弱かったり、欲望を抑えられないことが自分を不幸へと追いやっていくのですから、結局は、自業自得なんですけどね。

自分でやったことは自分で責任を取らなければいけないのは当たり前のこと。
魔がさして何かをしでかしてしまったなら、嘘をついて逃れたり、無理やり回避したり、責任転嫁したりしないようにしたいものです。
もし保身に走ったなら、それはカルマを倍増させることになるのですから、そのツケの大きさを考えると、ゾッとします。

とりあえず、社会的制裁をじっと我慢しながら、前向きに乗り越えて行ってほしいと思います。
もちろん、二度と同じ過ちを繰り返さない、という決心が大前提ですが。

でも忘れていけないのは、そうした出来事をどう扱うかで、ダイヤにもなり、石ころにもなるということなのでしょうね。

2016-02-08 「口は禍の元」

この 「口は禍の元」 という言葉は誰もが知っている格言であるし、誰にとっても耳の痛い言葉じゃないでしょうか。
私自身、しまった! また言っちゃった! という経験が何度もあって、恥ずかしながら、いまだに “反省と後悔” を繰り返しています。

聖書の中にもこの格言と似た記述があって、とても厳しいというか、辛辣というか、私にとっては、ぐうの音も出ないほど的を射ている言葉があります。

この言葉を最初に読んで以来、いまだに心に突き刺さったままになっているほど。
突き刺さっているからこそ、ことあるごとに思い出されるし、自らの口を制御する一端を担ってくれているのだろうと思います。

その聖書の一節を紹介します。(新約聖書のヤコブの手紙 第3章)
舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。
見よ、ごく小さな火でも非常に大きな森を燃やすではないか。
舌は火である。
不義の世界である。
舌は、私たちの器官の一つとして供えられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。
あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられてきた。
ところが、舌を制しうる人は、一人もいない。
それは制しにくい悪であって、死の毒に満ちている
私たちは、この舌で父なる主を賛美し、またその同じ舌で、神にかたどって造られた人間を呪っている。
同じ口から、賛美と呪いとが出てくる。
聖書はニケーア会議で改ざんされているからということで、スピリチュアリストの中には頑なに聖書を敬遠する人がいます。

スピリチュアリズムの真理だけが正しくて、それ以外は間違っているとか、程度が低いと豪語する人もいるけれど、地上の人間には、地上的な言葉が必要なことだってあるのです。

自分にとって必要だと思える言葉なら、素直に受け入れて、自分をコントロールし、成長させる肥やしにすればいいと思うのです。

2016-02-03 「内村鑑三」

人と待ち合わせをしていると、ふと聞こえてきた言葉に、私のアンテナが立ちました。

「100分de名著」 という番組で 「内村鑑三 」 を取り上げていて、その中のほんの一説が気になったんです。

内村鑑三といえば、有名なキリスト教信者・・・と思っていたら、そうではなくて、どうやら無教会主義を唱えた宗教家らしい。
( え? そんなことも知らなかったの? と言わないでね )
ほんの数分しか聞けなかったけど、しばらく考えさせられてしまいました。

考えさせられた言葉というのは、「人は木に喩えることができる。その実は食べた人でないとわからない。」 というようなものでした。

私もそれなりに考えてみました。

自分の人生の中で生り続けている実がどんなのであるかは、自分ではわからない。
自分では善い実を生らせていると思っているのだけれど、きっと悪い実もかなりできてしまっているに違いない。
自分では善い実と思っても、それを食べた人が美味しいと思うかどうかは別。
それに、食べた人にとっては毒になることだってあるかもしれない。

その逆に、自分では善くない実だから捨ててしまいたい、と思っても、中にはその毒が薬になる場合だってある・・・ってね。

全ては目に見えない力が働いて、必要な人のところに必要な実が届けられているに違いない。
そして、実の中には種が入っていて、その種がどういう芽を出すのかは、食べた人次第なのでしょう。

私たちがすることはただ一つ。
霊的真理に沿って、人の役に立つ生き方をするだけ。
あとは、守護霊なり、指導霊なりが上手く取り計らってくれるに違いない。

と、しばし考えさせられてしまった次第です。 

2018-01-31 「トラブル」

いつの世もトラブルというのは次から次へと起こってきます。
そのため、新聞やテレビのニュースの話題が尽きることはありません。

トラブルの当事者たちの話を聞くと、深く悩み、傷つき、もしかしたら再起不能ではないか、と思われる人もいれば、逆に、大きなトラブルを起こしておきながら、自分は悪くない、誰かがリークしなければこんなことにはならなかった、と開き直る人もたくさんいます。

こうしたトラブルを垣間見るたびに思うのは、関係している人全員が自分の利己性に気が付いて改める努力をすることが大切なのであって、自分以外の誰かを非難することで自己を正当化したり、防衛をしてはいけないということ。

誰かを非難すれば、それは一つのエネルギーになって、何倍にも膨れ上がって自分に返ってきます。
もちろん、善いことをすれば、善いエネルギーが返ってくるわけです。

よくよく考えてみれば、これはとても恐ろしいことだと思います。
なぜなら、自分では良かれと思ってしたことが、自分に負のエネルギーを与えることになったりするから。

私は、トラブルの内容はどうであれ、深く傷つき、反省し、その中から多くのことに気付きながら強く生きている人をとても美しいと思う。
まさにシルバーバーチが言う、金塊を砕き、その中から原石を取り出していることだと思うから。

誰も苦しみたくないけれど、本当は、それこそが成長する刺激であるし、様々に考えることで色々気が付くことが栄養となって成長していくのだと思うのです。

地上と霊界では、価値観が正反対のことがよくあるそうです。
トラブルに遭ったり巻き込まれることは不幸でもなんでもなく、むしろ大きなチャンスであると。
確かにそうだと思うことがよく起きます。
自分の弱点を認識するのはチャンスだし、それを克服することで成長していくのだから、これこそ神から愛されている証だと思う。
間違っても、原因を究明することに奔走して誰かに責任転嫁し、自らを見失うようなことがあってはいけないと痛切に思う。。

2016-01-28 「真理の実感」

読書会でいつも疑問に感じることがあります。
それは、みんな知識は豊富だけど、どれぐらい実感しているんだろう、という疑問。

例えば、シルバーバーチの言葉(1巻-第1章)にこんな言葉が。

「 私たちを互いに結びつける絆は神の絆です。」

出席している人に説明をお願いしたら、難しい言葉での説明が返ってきました。
一生懸命教えてくれるんだけど、説明を聞けば聞くほど、自分とは程遠い難しいものに思えてきて、ちょっと悲しくなってしまいました。

そこで天枝さんが短い一言。
「 両親の愛が深ければ深いほど、その子供たちは、お互いの信頼感とか絆が強くなる、というところかしら。」
自分の体験と一致して、納得できました。

2016-01-25 「新ページ」

ずいぶん間が空いてしまいました。
人生って色々あるものですね。
思い通りにはなかなかいかないものだというのをつくづく感じさせられる日々を過ごしておりました。

気持ちも新たに、新しいページを設けました。
慌ただしく過ぎ去っていく日常生活だからこそ、あちこち寄り道しながら散歩したり、立ち止まって空を見上げたり、たまには井戸端会議に参加したりする感じで、とりとめもない雑感を綴っていきたいと思います。
いわば、ツイッターと同じであります (o^―^o)

霊的真理と地上で生きている人の価値観は相反することが多いので、私の書く内容にも賛否両論あるかと思います。
そこは大きな気持ちで、そういう考えもあるのか、ぐらいに留めていただけたら幸いです。
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