スピリチュアリズム 

ちょっとスピリチュアルな
短編小説

第12話
「 目には目を、歯には歯を 」


ガタゴトガタゴト・・・
祥太は、東京からそれほど遠くない実家に帰るために、ローカル電車に乗って、外の風景を見ながらかつてのことを思い出していた。

自分の人生が大きく変わるきっかけになったのは、10年前の、あの電車の中だったのかもしれない。
あの時、生まれ育った街から逃げるために、今乗っているのと同じローカル電車に飛び乗って東京に向かった。

      

あの時、心は凍りつき、頭の中は、振り払っても振り払っても、自分がしでかしてしまったことが渦を巻くように脳裏に居座っていた。
そして、懺悔の気持ちと、悪いのは相手だという気持ちが交互に現れ、自暴自棄にもなっていた。

着のみ着のままで家を飛び出してきたから、今後の自分のことしか頭にはなく、後に残された家族のことなど気にする余裕もなかった。

ふと気が付くと、隣に座っている人が本を読んでいるのに気が付いた。
見るともなしに見ると、『 目には目を、歯には歯を、という言葉があるが、悪人には手向かうな。 右の頬を打たれたら左の頬を出せ。』
という言葉が目に入った。

しかし、当時の祥太にはその内容がとても理不尽なものに思え、自暴自棄になっていた心に加えて、急に怒りにも似た感情が湧きあがった。

悪人に手向かうなだと !?
悪いやつを野ざらしにしておけというのか。
右の頬を打たれたら左の頬を出せだと !?
負けるが勝ちだとでも言いたいのか。
負けは負け、勝ちは勝ちだ。
どこの親でも、やられっぱなしで帰ってくるな! やり返して来い! 
と教えるじゃないか。
“目には目を、歯には歯を” が正しいに決まってる。
もっと正しいのは、やられる前にやっちまうことだ。
そうしなければ、自分がやられちまうんだから!

この時、祥太はまだ17歳。
反発はしたものの、この言葉は折に触れ、脳裏によみがえるほど心に深く刻まれた。

祥太には2つ違いの兄が1人いる。
兄は見るからに元気で陽気なタイプなのだが、祥太は小さい頃から不健康でひ弱そうな子供だった。

祥太が5年生になり、兄が中学に進学した頃から、学校で苛めが始まった。
今までは何かにつけて兄がかばってくれていたので、誰も祥太には手を出さなかった。
しかし兄がいなくなったとたん、祥太は標的にされた。
それも、かなり陰湿で、親切に見せかけた苛めだった。

例をあげるなら、祥太が消しゴムを忘れたりすると、親切にも消しゴムを貸してやり、祥太が席を外した時にその消しゴムを隠し、あとでみんなで寄ってたかって 「 人から借りたものをなくすなんてひどい。 盗んだんだろう。 返せ!」 と罵声を浴びせるというやり方が多かった。

次に同じようなことが起こり、祥太が 「 貸してくれなくてもいい 」 と言うと、「 親切を無にした 」 と言って、それもまた苛めの対象になった。
こうして、上履きを隠されたり、シカトされたり、机に落書きされたりするのが日常的になっていった。

その頃、中学生の兄がボクシングを習い始めた。
もともと格闘技が好きで、レスリングをやるか、ボクシングをやるかで迷っていたが、父親の知り合いがジムを経営しているということで、ボクシングに決めた。

6年生の祥太はというと、相変わらず苛めの対象になっていた。
登下校の際に、ワル仲間にカバンを持たされたり、使いっぱしりもやらされていた。

そんな祥太も中学に進学することになり、兄と同じ校舎で学ぶことになると、同級生による苛めはパタッとなくなった。

祥太は考えた。
今年1年間はいいが、来年になって兄が卒業したら、また苛めが始まるに違いない。

それで兄と同じボクシングジムに通うことを決めた。

元々体力のない祥太だから、毎日の練習は相当きつい。
しかし、兄がいなくなったら苛めは再発する。
そう思うと、撃退できる体力ぐらいはつけておきたいと思い、きつい練習に必死に耐えた。

兄が中学を卒業していなくなると、予想通り苛めが始まった。
しかし、小学校の時に苛められたのがトラウマになっているのか、祥太には立ち向かう勇気はまだなかった。

夏休みのある日、公園に呼び出された。
みんなである女の子を待ち伏せするから、見張りをやれと言う。

待ち伏せしてどうするんだろう・・・
イヤな予感がした。

公園の入り口で見張りをしていると、女の子の悲鳴が聞こえた。
声がした方に走って行くと、男5人で1人の女の子を取り囲んでいるのが見えた。

女の子は隣のクラスの子で、雅美といった。
容姿端麗で頭も良く、みんなから注目の的になっている子だった。

その雅美を男5人が取り囲んでいるということは、次に何をしようとしているのかは容易に想像がついた。
祥太は思わず、 「 ねえ・・・や、やめた方がいいよ 」 と弱々しく言った。

すると、リーダー格の柿崎が、

「 おい、エラそうに、祥太がやめろって言ってるぞ。
そんなの、俺らには聞こえねえよなあ。
オマエはあっちで見張りをしてりゃあいいんだ!」

そう言って、祥太に殴りかかってきた。

ところが、祥太は素早く身をかわし、最初の一発で相手を打ちのめしてしまっていた。
無意識の行動というか、練習の成果でもあった。

あっという間の出来事に、みんな驚いた。
しかし、一番驚いたのは祥太自身だった。
ボクシングはしているものの、自分が強くなっているなんてこれっぽっちも思っていなかったからである。

驚いた仲間は散り散りになって逃げて行った。
残った祥太はと言うと、急に恐くなって、雅美を1人置いたままそこから逃げ出ししてしまった。

2学期が始まったので学校に出て行ったら、クラスは祥太の話で持ちきりになっていた。
見かけは相変わらず弱々しいなままなので、そのギャップがまるでスーパーマンの変わり身のように言われていた。

教室の隅を見ると、あいつらがなにやらヒソヒソと話している。
目が合ったとたん、ゆっくり自分の方にやって来て言った。

「 あの時は悪かった。 これからは仲良くしてくれよな。」

そう言われても、祥太の頭の中は苛められていた時の感覚が根強く残っている。
おどおどしながらも、小さく頷いた。

学校が終わって家に帰ろうと歩いていたら、向こうから柿崎が高校生らしき3人と一緒にこちらに向かって歩いてきた。

も、もしかしたらこの前の仕返し・・・かな。

予想どおり、この前の公園で決着をつけようと言われた。
本心を言えば、恐い。
しかし、後には引けない。
仕方なく承諾することにした。

家に帰り、私服に着替えて公園に行くと、柿崎たちはすでに来ていた。
「 この前の礼をさせてもらうからな 」、と言い終わらないうちに、高校生が殴りかかってきた。

祥太は、うまく身をかわし、ものの5分で勝負はついてしまった。
高校生たちは逃げ帰り、柿崎が1人残された。
祥太は柿崎の耳元でささやいた。

「 このことは誰にも言わないでよ。
もし言ったら、これぐらいじゃすまないからね。」

祥太はそう言っている自分にゾクゾクした。
苛められてきた自分が、今は優位に立っているのだ。

柿崎も、「 ああ、絶対に言わない 」 と約束した。
そして、それ以来、柿崎はいつも祥太の目を気にし、他の子を苛めなくなった。

祥太は、ボクシングを習ってよかった、と心底思った。

初めて祥太を見る人は、祥太があまりにも軟弱に見えるからなのか、誰もが上から目線でバカにしたような言葉で話しかける。
そして次に、こいつを苛めてみたい、という衝動に駆られるようだ。
しかし、手を出した瞬間、その思いはすぐに打ち砕かれる。

繁華街を歩いているとカツアゲの対象になりやすいらしく、いつも声をかけられる。
小さな声で 「すみません。 許してください 」 と上目遣いに言うと、こいつは弱そうだから絶対に金が取れると思って、相手は強気に出る。
祥太がのらりくらりしていると、相手は苛立って胸ぐらを掴んでくる。
すると、祥太は急に態度を変えて拳を炸裂させるので、みんな這うようにして逃げていく。
自分を見かけだけで弱い奴だと笑った奴は、ぐうの音も出ないほどボコボコにした。

こうしたことが重なるにつれ、祥太は、しだいに自分のギャップを楽しむようにさえなっていた。
そして、「 やられたらやり返す、やられる前にやる 」、それが祥太のモットーになっていた。

ある日、近くのコンビニに行こうと歩いていたら、きれいな女性がニコニコ声をかけてきた。
私服だったのですぐには分からなかったが、しばらくして、隣のクラスにいた雅美だと気が付いた。

「 祥太君、あの時はありがとう。
あの時よりずっとたくましくなったね。」

この再会が縁で、2人は時々会って話をするようになった。
2人の話題は、あの事件のことに始まり、お互いの生活のことまで話した。

どちらかというと無口の祥太だが、不思議なことに雅美とは何でも話せる。
雅美と話している時は、イライラも収まり、モヤモヤも吹き飛んだ。

その後、2人は別々の高校に入学したが、雅美との付き合いはその後も続いた。
男女というより、クラスメイト、いや、姉と弟という感じの付き合いだった。
会うといっても、どこかの公園だったり、川べりだったり、ただお互いの話をするだけの間柄。

仲間の中には、やっちまえ、と言うヤツもいたが、雅美は自分にとってそんな存在じゃない、と跳ね返した。
祥太にとっては、雅美との友情的な付き合いは、本当に心地よかった。

ある日、雅美を家まで送っていくと、雅美の父親が突然玄関から出てきた。
父親は仁王立ちになり、一方的にまくし立てた。

「 雅美とは別れてもらうからな。
お前たちが一緒にいるところを、近所の人が何度も見てるんだ。
お前は自分の素行が分かってるのか !?
これから娘と会うことは絶対に許さん! 」

雅美は止めに入ったが、父親は更に興奮し、口汚く罵った。
雅美の父親だからと思って我慢していたが、祥太にも限界が来た。
祥太が両方の拳をぎゅっと握り締めて、その握りこぶしを胸辺りに持ってくると、父親が怒鳴った。

「 なんだ、その手は!
俺を殴ろうとでも言うのかっ!
殴れるものなら殴ってみろ。
殴るってえのはこうするんだっ!」

そう言ったかと思うと、父親の方が先に殴りかかってきた。
その瞬間、祥太はさっと身をかわし、してはいけないことをしてしまった。
とっさに右手が出てしまったのだ。

そして、父親は呻き声を上げてその場で倒れこんだ。
祥太は 「 しまった!」 と思ったが、どうにもならなくなり、その場から逃走した。

雅美の母親がその場で110番に電話をかけたらしく、走っている後ろでパトカーのサイレンの音が聞こえた時は、自分はもう終わりだと思った。
家に逃げ帰り、カバンに当面の洋服を突っ込み、母親の財布を手に掴んでそのままJRの駅へと走った。

家へは駅のホームから電話をして、
「 しばらく帰らないから、探さないで 」 とだけ留守電に入れておいた。
そして、東京行きの電車に飛び乗ったのだった。

自分は我慢したんだ。
雅美の父親があんなことをしなければ・・・・・
俺だけが悪いわけじゃない

そんなことを考えながらふと横目で隣を見ると、その人が読んでいる本が目に入った。

『 目には目を、歯には歯を、という言葉があるが、悪人には手向かうな。 右の頬を打たれたら左の頬を出せ。』
この言葉に出会ったのは、この時だったのだ。

東京に着くとすぐに、祥太は以前ボクシングジムで知り合った先輩に連絡を取ってみた。
東京で唯一知っている人だ。

会っていきさつを話したら、原因がどうであれ、ボクシングをやっているやつが一般人に手を出してはいけないときつく言われた。
なぜなら、ボクサーのパンチは凶器と同じだからだ。

だけど、祥太はジムの中では一番弱かったから、自分のパンチが凶器になるなどとは これっぽちも思ってなかった。
むしろ、こんなに弱い自分でも、弱い者苛めするをヤツをやっつけることができる。
半分はそんな侠客気取りだったのかもしれない。
とにかく、この先輩の言葉は心に染みた。

しばらくは、その先輩のアパートに住まわせてもらいながら、仕事を探した。

1ヶ月後、住み込みでできる土建業の機材運びのアルバイトを見つけることができた。
寮ではどの人も自分より年上ばかりなので、みんな親切にしてくれる。
特に寮のオバちゃんは、いつも明るく声をかけてくれるので嬉しい。
仕事はきついが、働いている間は雅美の父親とのこと、学校でのことなど、忘れることができた。

ある日、仕事が終わって寮に帰ってくると、食堂で酒を飲んでくだを巻いているオッサンがいた。
外で飲んできて、飲み足りないからと言って、オバちゃんにお酒をせがんでいるところに出くわしてしまった。
軽く会釈だけして、オッサンから離れたところでご飯を食べようとしたら、

「 おめえ、未だに挨拶もろくにできねえのか。
これだから中卒のガキはダメだっつーだ。
ガキなんてえのは、常識ってえものを全く知らねえんだからやってらんねえわ。」

何が気に入らないのか、理屈にならない理屈をコネ、こんどは祥太の無愛想さが気に入らないとネチネチ言い始めた。
祥太はグッと拳を握って、もしオッサンが手を出してきたら一発やってやろうと思っていたら、オバちゃんがオッサンに言った。

「 ちょっとお、酒飲んでクダ巻くのは目障りなんだよ。
そんなヒマがあったら、さっさと寝ちまいな! 」

そう言ってオッサンを追い払ってくれた。
この寮の中でオバちゃんに盾突くヤツは1人もいない。

オバちゃんが一言言ってくれなかったら、いけないと分かっていながら、またしても手が出ていたにちがいない。
そう思うと、相当ムカついたが、ギリギリで我慢できた自分にホッとした。

翌朝、オッサンは自分の言ったことを棚に上げて、

「 オイ! オマエ!
昨日のことはオバちゃんに免じて許してやらあ。
今度から気イつけろ!」

と高飛車に言ってきた。
何を! と思ったが、やはり相手は寮の先輩なので我慢するしかない。
それにしても、癪に障る。

その時、ふと電車の中で隣の人が読んでいた本のことを思い出した。
確か、「 目には目を、歯には歯を、という言葉があるが、悪人には手向かうな。 右の頬を打たれたら左の頬を出せ。」 だったな。
いま自分が我慢をしたということは、悪人に手向かわなかった、ということになるのかな。

だけど、自分は悪くないのに我慢をするのはムカつく。
それなのに更に左の頬を出せだなんて、とんでもないことだ。
やっぱりあの言葉は間違っている。

それから半年がたち、東京にも仕事にもずいぶん慣れた。
相変わらず弱々しい印象はあるが、不思議なもので、周りが年上ばかりだと何かにつけてかばってくれる。
同年代だと弱々しさは苛めの対象になるようだが、年上から見ると、かばいたくなるようだ。

更に時が経ち、祥太も27歳。
体格も出来上がり、もうすっかり大人になっていた。
仕事で鍛えた体のおかげで、もう以前のように弱々しい祥太ではない。
時として絡まれることがあるが、そのたびに、あの言葉が思い出された。

いったい、あの本は何という名前だったんだろう。
もしかしたら、オバちゃんなら知っているかもしれないと思って聞いてみると、

「 ああ、それは有名な言葉だ。
たしか聖書だと思うよ。
聖書と言うのはキリスト教の本さ。 」

そう教えてくれた。
オバちゃんは意外にいろいろなことをよく知っている。

その聖書というのは、本屋で売っているのかな。
それとも、キリスト教に行かないと買えないのかな。

祥太は、気になり始めたら、とことん気になる性格をしている。
オバちゃんはその祥太の気持ちを見抜いたのか、一緒に教会に行ってみようと誘ってくれた。

オバちゃんが連れて行ってくれた教会は、バスで15分ぐらいのところにあった。
その教会の牧師さんに、言葉の意味を率直に聞いてみることにした。

「 “目には目を、歯には歯を、という言葉があるが、悪人には手向かうな。 右の頬を打たれたら左の頬を出せ。” というのは、どういう意味ですか?」

牧師さんはいろいろ説明してくれたが、独特の言葉を使うので、難しすぎて祥太には理解できない。
「 “ 目には目を ” とは旧約聖書の中の言葉で、イスラムのコーランやハムラビ法典の中にもあって・・・
それでイエス様がヨハネからバプテスマを受け・・・」

旧約聖書? バプテスマ? ハムラビ? コーラン? ヨハネって誰?
そんな説明が延々と続き、祥太の知りたい内容はちっとも出てこない。
それで、もっと自分が分かるように、簡単に説明をしてほしいと頼んでみた。

牧師さんは、やり返す人は心が小さいとか、傲慢だとか、利己的だとか、愛がないだとか、神の御心に適ってないだとか、そんな言葉を並べ立てた。
どうやら 「 やり返してはいけない 」、ということらしい。

「 じゃあ、どうしたらやり返さない人になれるんですか?」
すると、牧師さんは 「 神を信じて、神の子になるためにバプテスマを受けなさい。 イエス様を受け入れ、信じなさい 」 と言った。

えっ? なんだそれは?
そんなことでやり返さない人になれるの?

疑問が湧いたので、別のことを聞いてみた。

「 もし相手が、包丁を振り回して自分を刺したら、もう一度刺された方が心が広いということになるんですか?
もし誰かが牧師さんを殴ったら、左の頬を出しますか?」

それに対して、牧師さんは困った顔をした。
それでも更に説明をしてくれたが、説明してくれればしてくれるほど、よけいに分からなくなった。
それで、何度も何度も聞き返していたら、牧師さんが苛立ち、

「 こんなに説明しているのに、まだ分からないのですか!
時が来たら理解できると思いますから、その時にまた説明します。
今、これ以上説明を続けるのは時間の無駄です。
私は忙しいので、これで失礼します。」

そう言って、さっさと教会を出て行ってしまった。
帰り道、自分が思ったことをオバちゃんに言うと、

「 あの牧師さんは、頭では分かっていても、まだ自分をコントロールできないのかもしれないねえ。
牧師だからと言って、聖書の理解はできても全部実行できるわけじゃないのさ。
人は “見かけ” で判断してはいけないんだよ。
祥太だって、見かけは自信がなさそうで弱そうだけど、本当は強いんだろ。」

なぜオバちゃんがそんなことを知ってるんだろう。

オバちゃんは、「そんなの見てりゃあ分かるさ」、と言ってから、さっきの説明を始めた。

「 やられるたびにお互いがやり返していたら、収拾がつかなくなって、問題はどんどん大きくなるじゃないか。
それに、やり返したら相手はもっと怒る。
そうすれば、自分だって後には引けなくなっちまう。
でも、叩きたかったらどうぞ、それで気が済むんだったらどうぞ殴ってください、って左の頬を差し出せば、その人は自分のしたことが恥ずかしくなって、問題はスーッと引いてしまうんだよ。
自分が一歩引くことで、怒っていた相手の心が変わる、つまり、相手の理性とか善意に喝を入れることになるんだ。
それが愛って言うものかもしれないね。
広い心を持った人でないと、一歩引くことなんてできないからね。
キリスト教の解釈の仕方とは違うかもしれないけど、オバちゃんはそう思うよ。」

祥太には、おばちゃんの説明の方が良く分かった。
もし自分が雅美の父親が殴りかかってきたときに殴り返していなかったら、自分は街を逃げ出さなくてもよかった。

しかし、オバちゃんの話を聞いて理解できても、 「 やられたらやり返す、やられる前にやる 」、という考えもまだ拭い切れない。
それで、オバちゃんに質問をしてみた。

「 悪人を野ざらしにしておいてもいいの?
相手が包丁を振り回して自分を刺したら、もう一度刺された方が良いということ?」

おばちゃんは言った。
「 それは特別な人の究極の選択だね。
もしそれができたら、刺された人は損をするように見えるけど、周りへの影響は大きいから、それも有りかも知れないね。」

「 じゃあ、子供の場合はどうなの?
例えば苛めとかだけど。
苛められっぱなしでいいってこと?
それだと、心が傷ついて立ち上がれなくなるんだ。」

「 子供でも大人でも、苛めとなると問題がまた別だと思うよ。
だって、苛める方には悪意があるからねえ。
ただ、その悪意も相手が自分で自覚しているなら、左の頬を差し出せば相手の理性に喝を入れることができるけど、自覚していなければ叩かれ損ってことにもなる。
まあ、いずれ自覚できる時は来るだろうけど。
今まで祥太が考えてきたことは、自分は正しい、自分は間違っていないと思っている者同士の問題なんだよ。
だけど、苛めはもっと深い心の闇の部分の問題だから、単純に理解できることじゃないかもしれないねえ。」

祥太は、なるほどと思った。
相手に悪意がある場合と、正義から出ている場合では違うということが分かった。

『 悪人に手向かうな 』 という “悪人” というのは、悪い人という意味ではなくて、お互いに自分が正しいと思っているから、相手が悪い人に見えるだけなんだ。
今自分が考えているのは、雅美のお父さんとの問題だ。
雅美のお父さんが怒ったのは、娘を守ろうという正義からだったんだ。
そうか、苛めとはまた別の問題なんだな。

ある日、給料が出たので、何か買おうと思ってデパートに行くことにした。
あれこれ見ていると、すぐ後ろで大きな声を出している人がいた。
振り返ってみると、年配の女の人が店員に、ズボンの裾直しの出来上がりが短すぎると文句を言っている。

その店員も謝ってはいるものの、「 私はお客様が注文されたとおりにやっただけです!」 と言ったものだから、その年配の人は余計に腹を立て、「 それが客に言う言葉なの! 店長を呼びなさい!」 と言い始めた。

そこへ、別の店員が現れて、平謝りに謝り、

「 お客様の仰ることはごもっともでございます。
申し訳ありませんでした。
おかげで、当店の不手際な部分が見つかりましたことを、感謝いたします。
お客様のお言葉で、社員教育を徹底しなければいけないことが分かりました。
貴重なご意見を有り難うございました。」

それを聞いて、その年配の客の態度もしだいに穏やかになり、

「 私も言いすぎたわ。 ごめんなさいね。」

と言い、丸く収まった。
祥太は、後で来た店員の態度と言葉にいたく感心した。

まてよ。
これって・・・あの言葉そのままじゃないか。
そうか、こういうことだったんだ。
簡単に言えば、『 負けるが勝ち 』 なんだ。
僕はずっと、『 目には目を 』 が正しいと思ってた。
やられたらやり返すのが当然だと思ってた。
でも、オバちゃんが言うとおり、そうじゃなかった。

寮に帰ってこのことを話すと、オバちゃんは言った。

「 祥太が知りたがっていたから、目に見えない力が教えてくれたんだよ。
体験できてよかったねえ。
謝った店員さんを見て、お客に負けたとか、弱い奴だと思ったかい?」

「 いや、立派だと思った。 すごく立派だと思った。」

「 そうかい、そうかい、祥太はちゃんと理解できたんだね。」

祥太は、まさかデパートで納得できることに出会うとは思ってもみなかった。

そうだ、これを機会に街に帰ってみようかな。
街に帰って雅美のおじさんに謝ろう。
もしかしたら罵倒されるかもしれない。
追い返されるかもしれないし、殴られるかもしれない。
左の頬を叩かれるために、とにかく行ってみよう。

雅美の父親のことは、ずっと心に突き刺さったままになっている。
誰かが抜いてくれるわけでもない。
この棘を自分で抜かなければ先に進めない気がした。

電車にガタゴト揺られている時の気分は、来た時とは大違いだった。
あの時は街から逃げ出してきた。
でも、少しは成長した自分がここにいる。
そう思うと、車窓から見える景色がとても明るく感じた。

ところが、電車を下りて、雅美の家に向かう段になると、足がとてつもなく重い。
玄関が見えた時は、心臓がバクバクいって、自分の耳にも聞こえるほどに感じた。

でも、せっかくここまで来たんだ。
こんどは逃げ帰るわけにはいかない。

しばらく家の周りをウロウロしていたが、意を決してチャイムを鳴らした。

ピンポーン!

すると、中から雅美のお母さんが出てきた。
最初は祥太だと分からなかったみたいだが、名前を告げたら、慌ててお父さんを呼びに行った。
お父さんはすぐに出てきた。

覚悟はしていたものの、お父さんの顔を見ると、やはり恐さが先に立つ。
拳をぎゅっと握りしめ、何を言われても最後まで耐えようと決心していた。

「 きょ、きょうは・・・あの時のお詫びを言いに・・・来ました。」

それだけ言うのが精一杯だった。
すると、お父さんは、

「 やあ、よく来てくれたなあ。
あの時は、俺の方が悪かった。
近所の人の言うのを真に受けちまって、頭に血が上ってしまってたんだなあ。
あとで雅美に、そんな付き合いじゃないってさんざん叱られたよ、はっはっは。
君には辛い思いをさせてしまった。
まあ、上がりたまえ。
雅美は一昨年に結婚して、今は子供もいるんだ。」

そうとう覚悟をしてきたので、嬉しそうに言う父親の言葉に気が抜けた。
が、正直嬉しかった。
思い切って来てみて良かった。
でなければ、まだ自分は心の負債を抱えたままだったから。

やっぱり、『 負けるが勝ち 』 なんだ。
『 やられたらやり返す 』 というのは勝負の世界だけで、目に見えない心の世界は逆 なんだ。

祥太は今、心から納得できた。

それから、雅美とも電話で話すことができた。
相手はどんな人なんだろう、雅美を一生守ってくれる人だといいな、と思った。

雅美の両親と話をしてから、自分の家に行ってみた。
家では両親も兄貴も待っていた。
寮のオバちゃんが電話で知らせてくれたらしい。

祥太がいなくなってから、母親は毎日心配で泣き暮らしたという。
しかし、祥太が頑張って働いていることを、おばちゃんが何度か電話で知らせてくれたので、安心して祥太の帰りを待つことができたと言ってくれた。

あの頃の自分は、周りの人のことなど考える余裕がなかった。
いつも自分が被害者で、いつも苛められている自分をかばう気持ちしかなかった。
強くなりさえすれば、誰からも苛められないと思ってた。

しかし、今こうして家族を前にしていると、なんてちっぽけな自分だったのか、なんて親不孝だったのかと、反省の思いばかりが湧いてくる。

思い切って帰ってきて良かった。
これで、いっぱしの人間になっていけそうな気がする。
これまで親不孝した分、その倍以上しっかりと親孝行できるように、もう少し東京で頑張ってみようかな。
もし自分が結婚して子供が出来たら、苛めに負けない強い心、大きな心を持った子供に育てたいな。
そうできるように、ちゃんとした大人にならなくっちゃ。

祥太の大人として生きていく道が始まったようだ。


― end ―

2010 / 01 / 13 初編
2014 / 06 / 13 改編

 

 

 







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