交差点の信号が黄色から赤に変わり、大勢の人が横断歩道で立ち止まった。
見渡してみると、生気が抜けたようにじっと立って、信号が青になるのを待っている人もいれば、気ぜわしそうにしている人もいる。
そうした人たちを見るともなく信号を待っていたら、ふと子供の頃のことが思い出された。

そういえば、小学生の頃、僕はいじめられっ子だったなあ。
あの頃の僕の家はとても貧しくて、両親が共働きをしていたわりには、ちっとも生活は楽じゃなかった。
クラスに金持ちのやつがいて、そいつらは僕のヨレヨレの服とか靴を見ていつも笑ってたっけ。
まだ子供だったから経済のことは分からなくて、ヤツらを見返すには勉強しかないと思って、勉強に打ち込むしかなかった。
おかげで、ヤツらより成績が上になったお蔭で、不思議といじめはなくなっていった。
ざまあみろ、って感じだった。
あいつら、今は何してるかなあ。

辰也の父親は人が良い。
貧乏だったのは、友達の借金の保証人になって、その友人が逃げてしまったかららしいというのが後で分かった。
それでも、父親は愚痴一つ言わずに、働いて働いて借金を返した。

辰也は父親に似たと見えて、子供ながらに他人が困っているのを見過ごせないところがある。
ある日、同じクラスの貞夫が廊下で泣いていた。
特に仲が良いわけじゃなかったが、泣いているのを見たら気になって、見て見ぬふりをすることができなかった。

どうしたのかと声をかけたら、絵の具を持って来るのを忘れたと言う。
辰也は、「 大丈夫だよ。　僕のを一緒に使おうよ 」　と言って、担任にそのことを話して、図工の時間だけ一緒に座って絵を描いた。

翌週、その貞夫が教室の隅で、また泣いていた。
どうしたのかと聞くと、また絵の具を忘れたと言う。
なんだかおかしいと思って更に聞いてみると、家にお金がなくて、絵の具を買ってもらえないのだと言う。

辰也は母親に状況を話し、貞夫に絵の具を買ってあげたほしいと頼んだが、母親はそれはできないと言った。

「 友達が困っているのに、なぜ母さんは助けてくれないんだ 」、と詰め寄ると、母親は言った。

「 悪いけど、他の子の絵の具まで買う余裕はウチにはないんだよ。
辰也の友達でしょ。
だったら、辰也が自分の小遣いで買ってあげたらいいじゃない。
これは、辰也の問題なんだからね。」

自分の小遣いが減るのはちょっと嫌だったが、母さんが言うのはもっともだと思って、自分のなけなしの小遣いから絵の具を買って渡した。
貞夫はとても喜んでくれたので、辰也は 「 良かった〜、ああ良いことをした 」 と満足した。

数日して、またその貞夫が教室の隅で泣いていた。
話を聞いてみたら、算数で使うコンパスと定規が買えないのだと言う。
辰也は、ちょっと躊躇したが、また自分の小遣いで買ってあげることにした。

数日して、今度はその貞夫の方から声をかけてきた。
鉛筆が少なくなってきたから買って欲しいと言う。
さすがに辰也は困った。
もう小遣いがない。

「 ごめん、もう小遣いがないんだ。」

そう言うと、貞夫は、

「 貯金はあるんだろ？
貯金を崩せばいいじゃん。」

その言葉を聞いて辰也は驚いたと同時に、腹が立ってきた。
本当は貯金はあったが、

「 貯金なんかない！　　もう僕にはお金はないよ！」
そう言って突っぱねた。

すると貞夫は、
「 なーんだ、もうないのか。　シケてんの。」
そう言って向こうに行ってしまった。

後で分かったことだが、貞夫の家にお金がないのではなく、貞夫は人に物をねだって手に入れる常習者だったのだ。
それを知って辰也は、自分の善意が裏切られたことに強いショックを受けた。
貞夫を助けたつもりが、こんな形で返ってくるとは・・・
それ以来、貞夫とは絶交状態となり、口をきいていない。

そんな辰也も成長して大学生になった。

ある日の夕方、暇を持て余して街中をブラブラ歩いていたら、五井さんという女性を見かけた。
彼女は友人のそのまた友人だったので、挨拶程度にしか会話をしたことがない人だったが、自分の知り合いの中にはいない雰囲気を持っている人だと感じていた。
友人の話ではボランティアに携わっていると言うことだったので、一度はゆっくり話してみたいと思っていた人でもあった。

誰かと待ち合わせをしているらしく、時々周りを見て待ち人を探している感じだ。
もし彼氏と待ち合わせをしているのだったらお邪魔かな、と思いつつ、せっかくの機会なので思い切って話しかけてみた。

聞いてみると、待ち合わせをしているのは同じボランティア仲間だという。
辰也はどのようなボランティアをしているのか興味が湧いた。

話を聞いてみたいと申し出ると、『百聞は一見にしかず』 だから、話を聞くより、自分の目で見るのが一番だと言われて一緒に行ってみることにした。

待ち合わしをしていた人も女性で、歩きながら３人で自己紹介をしあった。
ボランティアの概略を聞くと、１週間に１度だけ、ホームレスの人に食事や日用品を手配してあげているのだという。
その経費は中小企業や個人からの献金でまかなっているのだということだった。
もちろん、彼女たちへの報酬は一切ない。
報酬はないのに頑張っている彼女たちが眩しく見えた。

１５分ほど歩いて、ある公園に着いた。
すでに他のボランティアの人が何人か来ていて、準備を始めていた。
ホームレスの人たちも集まり始めていた。

テーブルの上には、１人分としておにぎりが２個と、温かい味噌汁が用意されていて、その横には、日用雑貨が置いてあった。
石鹸とか、歯ブラシとか、髭剃りとかティッシュなどのようなものだ。
これは、注文品らしい。
とりあえず最低の生活を援助しているという感じだ。

集まって来る人は、働きたいのに働くところがなくて、仕方なく路上生活を余儀なくされている人が多かった。
見た目ではまさかこの人がホームレス？　というぐらいきれいな身なりをしている人もいる。

今のこの大不況でのホームレス ・・・ 自分だっていつこういう事態に陥るとも限らない、だから他人事だといって見て見ぬふりをしてはいけない、そんな思いがふつふつと湧きあがってきた。

この出会いはきっと何かの縁だろう。
辰也はこのボランティアに加わって、自分の事情が許す限りやってみようと思った。

始めてみて思ったことは、無報酬ではあるけれど、お金には換えられない充実感があるということだ。
特に、ボランティア仲間といろいろ話をするのはとても楽しい。
食事の支援は１週間に１度しかないが、その日のためにあれこれと準備をしなくてはならないので、けっこう忙しい毎日だ。

ところが、やっていくうちにいろいろと考えることが出てきた。
週にたった１度しか支援をしていないのに、なぜか自分の心の中には、“やってあげている” という傲慢な思いが湧いてきているのだ。
自分は差別をしているつもりは全くない。
しかし、何かしら優越感を感じているのは認めざるをえない。

ホームレスの人たちは、みんな 「 有り難う。 助かるよ 」 と言ってくれる。
その言葉はたまらなく嬉しい。
しかし、自分はその言葉にあぐらをかいて、甘んじていないだろうか。
こんな気持ちで続けても良いのだろうか・・・

集まって来ている人たちは、自分より年上の人が多い。
派遣切りにあった人ばかりじゃなく、元は社長だった人もいるみたいだし。
この人たちは、もしかしたら 「 自分はこんな若造に負けている 」 とか 「 恵んでもらってる 」 なんて思っているんじゃないだろうか。
もしそうだとしたら、僕はこの人たちのプライドを傷つけていることになるんじゃ・・・

一人で考えていたら堂々巡りになるだけで、納得する答えなんて出てこない。

仲間に自分の気持ちを打ち明けてみると、

「 そんなこと考えずに支援すればいいんだよ。
困っている人に手を差し伸べるのは当たり前じゃないか。
自分が傲慢だと思うなら、傲慢じゃないように考え方を変えれば良いじゃないか。
“やってあげている” じゃなくて、“やらせてもらっている” って考えたらどうだ。」

そうか、“ やらせてもらっている ” か。
そうだな、そういう謙虚な思いで頑張るようにしよう。

しばらくしたら、また別の思いが湧きあがってきた。

こうして食事とか生活用品の支援をするのはいいが、ホームレスの人たちがこれに甘んじてしまって、こんな世の中でせっせと働くより、無料で食事とか生活用品を支給してもらっている方が楽だから、返って働く気がなくなるんじゃないだろうか。
もしそうだとしたら、自分たちのしていることは自己満足であって、本当は良くないことをしているんじゃないだろうか。
余計な優しさは、時にはその人をダメにするって言うし。
もし、ダメになって行くとしたら、どうやって責任を取ればいいんだ。
だけど、本当に困っている人には、支援は必要だと思うし・・・

いくら考えても答えは出てこないので、また仲間に聞くことにした。
すると、

「 それは僕もずっと考えていることなんだ。
支援は必要だと思うけど、働かなくても暮らせるのが続くと、どうなのかなって。
ホームレスになりたての人は、何とかして仕事を探そうと躍起になるけど、病気をしたり、仕事に就けない時期が長く続いたりすると働く気力がなくなって、飲んだくれるだけになる人もいるんだ。
僕も時々、こういうボランティアって罪作りなのかもしれない、なんて思うことがあるんだよ。」

と、その時、一人の立派なスーツ姿の男の人が話しかけてきた。

「 キミたちは若くて純粋なんだなあ。
あ、悪いな、聞こえてきちゃったから、話の中に割り込ませてもらうよ。
実は、私もホームレスの１人でねえ。
派遣切りじゃなくて、倒産した口なんだ。

食事を恵んでもらうのは有り難いけど、支給してもらう列に並ぶと、逆に惨めさが倍増してしまうものなんだ。
キミたちのせいだと言っているんじゃない。
こんな風になったのは、自分のせいだからな。

いい歳して、こんな生活をしなければいけないなんて、情けなくってさあ。
だから、こんなスーツなんか着て見栄を張っているのかもしれない。
プライドだよ、プライド。

それはさておいてと。
食事とか生活用品の支援だが、私は君たちが自分で良いと思うことをするのが一番だと思う。
自分たちのしていることが相手にどんな影響を与えるかなんて、予め分かるはずないし、責任だって持てやしない。
ある人は支援をバネにして再就職できる人もいれば、やる気がなくなってずっとホームレスのままで終わる人もいる。
結果の先読みをしたら何もできないよ。

１００％良い結果に繋げることなんて、この世には存在しないんだ。
こちらが立てばあちらが立たず、あちらが立てばこちらが立たず、だからな。

私はね、こう考えるんだよ。
何事も動機が大切なんだとね。

どんなことでもそうだが、自分は善意でしてるのか、悪意でしてるのか、好奇心でしてるのか、見栄でしてるのか。
自分が責任を持てるのは “自分の動機” だけだと思う。

自分が善意でしているなら、その結果、相手がどうなろうと、君の知ったことじゃないんだ。
君の善意を相手が受け取る、その善意をどう受け取り、どう使うかは、相手の責任なんだよ。

キミたちのようなボランティアにしてもだ。
支援してもらうことを有り難いと思って頑張る人もいるし、惨めさから脱却したいと思って頑張る人もいる。
優しさに甘んじる人もいれば、余計なお世話だと怒る人もいるし、悪用する人もいる。

逆に、嫌がらせだってそうだ。
悪意のあるものを受け取ったとしても、それをどう受け止め、どう使うかは受け取った人の責任なんだ。

いじめられた人が、更に他の人をいじめるか、ひきこもりになるか、反対にいじめた人を反面教師にして自分を磨くか、それは受け取った人の人の責任なんだよ。
もし悪意のあるものを受け取ったとしても、自分で善いものに変えてしまえば良いんだ。

人間はね、神様からそういう力を頂いているんだよ。
だから、自分の動機以外のことは知ったことじゃないって言うんだ。

そうそう、こんな話があるよ。
ある有名な歌手の下積み時代の話だが、スナックでお客のリクエストで歌ったことがあるらしいんだ。
その時、そのお客はよほど虫の居所が悪かったのか、酔い過ぎていたのか、みんなの前で、「 そんな下手な歌なんか歌って、よくも歌手ですなんて言えたもんだ。　恥ずかしくないのかあ。　お前なんか絶対に売れないから、やめちまえ！」 って怒鳴られて、おまけに水をぶっ掛けたられたって言うんだ。
それでも最後まで歌ったそうだが、悔しさと情けなさで楽屋に戻ってから涙が止まらなかったらしい。

それから、いつかはあの酔っ払いを見返してやろうと心に決め、練習に練習を重ねていたら、ある曲が売れて、一躍有名になったのだが、その時に思い出したのは、あのスナックで自分を罵倒した酔っ払いのことだったという。

あの人が罵倒してくれたおかげで、力が付いたし、意地でも頑張ることができた。
あの時は恨んだけど、今では感謝しているって言っていたなあ。

支援してもらっている身でこんなことは言えた義理じゃないが、ボランティア、続けてくれよ。
みんな、本当に助かっているんだからさあ。」

辰也にはこの言葉はズシッと響いた。

そういえば、小学生の頃は、いじめられたから勉強を頑張ったし、成績も維持できた。
そう思うと、やっぱり、あいつらには感謝しないといけないな。

帰り道、喫茶店で反省会を兼ねてみんなと雑談をしていたら、テレビで某番組をやっているのに目が行った。
それは、ある女性が結婚詐欺に遭い、スタッフが隠しカメラで追跡して被害者と対峙させる、という番組だった。
興味本位で見ていたら、ハッとした。

あの詐欺師、どこかで見たような・・・
ま、まさか・・・
貞夫だ、あれは貞夫だ。
僕に絵の具とか定規を買わせた貞夫だ！
僕があの時何もしないでいたら、一言でも何か言うことができてたら、貞夫はここまで転落せずにすんだかも知れない。

そう思うと、自分のふがいなさに泣けてきた。
その時、あの立派なスーツを着たホームレスの人の言葉が思い返された。

「 受け取った善意をどう受け止め、どう使うかは、相手の責任なんだよ 」

そうだ、そうだった。
これは僕の責任じゃない。
あの時僕が買わなければ、アイツは他の人に買ってもらっていたかもしれない。
そして、結局は詐欺をして捕まったに違いない。
そう思ったら、少し気分が落ち着いた。

一緒に喫茶店にいた仲間が、

「 あれ？　　辰也、泣いてんのか？」
「 昔のことをちょっと思い出しちゃった。
何でもないよ。」

家に帰ったら、辰也は貞夫に手紙を書いてみようと思った。

― end ―