スピリチュアリズム

第9話 「責めること、許すこと 」

世の中ではよく 「 一姫二太郎 」 と言うが、昔の人たちの本音としては、最初の子は男子を望む人が多かった。
今でも旧家ともなると、長子に男子を望む家が少なくない。
そして、雅史はある由緒ある旧家の長男として生まれた。
周りが全員大人だからだろうか、とにかく何事も覚えるのが早い。
まだ2歳を過ぎたばかりなのに、数を教えればすぐに覚え、絵を用いれば足し算も引き算もできる。 そしてひらがなを教えたらすぐに読めるようになった。
家族はそんな雅史に大きな希望を見出し、能力を埋もれさせないようにしようとして英才教育を始めることにした。
習字、英会話、ピアノを習わせると、どれも面白いほどの上達ぶりだ。
家族にとって雅史は自慢の跡継ぎになった。
雅史は偉いねえ、もう英語を読んだり話したりできるし、ピアノだって大人顔負けだよ。」 
褒められると嬉しくて、更に頑張る。
独身の叔母も、雅史を自分の子供のように可愛がったし、祖母は雅史が何をやっても目を細めて見ている。
ところが、小学校に上がる頃になって妹が生まれると、雅史の身辺は一変した。
今までは周りの目が自分だけに注がれていたのに、妹が生まれると、周りの目は妹の方に注がれるようになったのだ。
雅史の心中は穏やかではない。
よくあることだが、妹がミルクを飲んでいると、自分も欲しいと駄々をこねたり、妹が抱っこされていると、自分も抱っこをしてほしいとせがむようになった。
いわゆる赤ちゃん返りである。
周りが妹に赤ちゃん言葉を使うので、雅史も赤ちゃん言葉を使えば、前のように自分も可愛がってもらえると思って赤ちゃん言葉を使ってみた。
ところが、可愛がってもらえるどころか、「 もうお兄ちゃんなんだから、そんな言葉を使ってはダメよ 」 と叱られた。
妹が生まれるまではワガママも可愛いとチヤホヤされたのに、今では少しイタズラをしただけで悪い子だと叱られる。
そして、何かにつけて 「 お兄ちゃんでしょ 」 と言われるのが理解できない。
自分でも何をどうしたらいいのかわからなくなり、だんだんとスネることが次第に多くなった。
それに、いくら習い事を頑張っても、誰も前のように褒めてはくれない。
それどころか、できなかったりすると 「 前はできたのにねえ 」 と言われたりする。
自分は頑張っているのに認めてもらえないとわかると、全てにやる気がなくなり、次第に習い事をせずにゲームばかりをやるようになっていった。
そうしたことが多くなるにつれて、姑や小姑、夫は、「 雅史がワガママになったのは母親が甘やかすからだ 」 「 母親の躾が悪いからだ 」 「 これは母親の血筋だよ 」 などと言うようになった。
母親というのは、こうした旧家では立場が低く、口答えは許されない上に、子供の躾まであれこれ指図されることが多い。
最初に雅史が生まれた時は、男子を産んだ良い嫁だと勝手にちやほやしておきながら、下が生まれて雅史の性格が悪くなると、全部私のせいにするんだから。
でも、言い返すことなんてご法度だし、いつも下出に出ていなければいけないなんて、私の存在なんて、ないに等しいんだわ・・・
母親のストレスはどんどん重なり、その鬱憤を晴らすように、雅史に小言を言うことが多くなった。
またゲームやってる。
こんなところを見られたら、お母さんがお婆ちゃんに叱られるのよ。
分かってるの?
ほら、さっさと片付けて!
あなたはお兄ちゃんでしょ。
妹の慶子はお利口なのに、どうして雅史はそんなに遅いの!
宿題はやったの?
前はなんでもすぐに覚えたのに、最近は九九だってちっとも覚えないんだから、嫌になっちゃうわ。
お前の出来が悪くなってきたのは、私のせいじゃない。
この家の遺伝なのよ。
お婆ちゃんはうるさ過ぎる。
味付けが濃いって言うから薄くしたら、今度は薄すぎるって言うし。
掃除だって自分は何もやらないのに、あれこれ指図ばかり。
私は無料の家政婦じゃないのよ。
もういい加減うんざり。
せめてお前のことぐらいあれこれ言われたくないから、大人しくしてるのよ。
分かったわね! 」
この頃になると、誰も見ていないところでの小言、それも姑や小姑の愚痴も雅史にぶちまけるようになり、最後に必ずこう付け加えた。
お母さんが今言ったことは、絶対誰にも言ってはいけないのよ。
もし言ったら、お母さんは雅史を置いてどこか遠くに行ってしまうからね。
雅史は母親がいなくなる不安を抱えるようになり、母親が言ったことは一切他言しなかった。
そして、心の中に重い荷物が増えるにつれ、だんだんと自分の殻の中に閉じこもるようになっていった。
こうした児童期を過ごしたので、小学校高学年の頃の学校の評価は “おとなしい子”。  成績は中ぐらいである。
しかし、旧家の跡取りがこの成績では恥ずかしいということで、祖母と父親は 「 母親のお前の勉強のさせ方が悪い。 成績が悪いのは、母親の遺伝だ 」 などと言い始めた。
母親は母親で、雅史のせいで自分がいろいろ言われたと言っては、その鬱憤を晴らすように、雅史を正座させて何時間も説教し続けることもあった。
どうしてこんな成績しか取れないの?
ちゃんと問題を読んでいれば、こんな間違いなんてするはずないのよ。
他の子ができてお前にできないって、おかしいでしょ。
努力が足りないのよ。
妹の慶子はまだ5歳なのに、言うことはよく聞くし、お稽古事だってどれも上手。
それなのに、お前はゲームをしたり、漫画ばかり読んで勉強しないから成績が悪いの。
お兄ちゃんが勉強できなくてどうするの!
小さい頃は頭が良かったのに、どうしてこんな風になっちゃったのかしら。
お婆ちゃんやお父さんは、お前の出来が悪いのは私のせいだって言うけど、本当は、お前はお婆ちゃんに似ているから出来が悪いのよ。
最近は、お婆ちゃんの底意地の悪い顔つきに似てきてるし。
まったく、本当にイヤになるわ。」
雅史は何も言わずに下を向いたまま、母親の小言が終わるのをじっと待つしかなかった。
雅史が中2になったある冬の日のことだった。
お風呂に入る際、入浴剤を入れようとして、誤って湯船の中に箱ごと落としてしまったことがある。
入浴剤を入れすぎた風呂はニオイが強烈なのでとても入れるものではない。
雅史は湯を抜いて出るしかなかった。
しばらくして、仕事から帰った父親が風呂に入ろうとすると、風呂場は入浴剤のニオイでムンムンとし、おまけに湯が入っていない。
怒った父親は母親を怒鳴りつけた。
母親は、父親に怒鳴られたのは雅史のせいだと言い、理由も聞かずに頭ごなしに叱り付け、責め立て、平手打ちをした。
雅史は口答えもできず、黙って頭をうなだれ、いつものようにその場が過ぎるのを待つしかなかった。
そして、母親は事あるごとに入浴剤のことを蒸し返した。
それ以来、雅史はおとなしい子から、陰気な子へと変わっていった。
中学時代はその陰気さが原因で、なかなか友達ができなかった。
教師もまた、愛想がなくはっきりしない雅史には冷たかった。
母さんは、口を開けば小言や愚痴だ。
父さんはほとんど家に帰って来ないし、妹はおしゃべりが多くてうるさいし、認知症が始まってるおばあちゃんは時々僕を可愛がってくれるけど、そうすると母さんが怒り出す。
母さんも父さんもお婆ちゃんも、妹の慶子の方が可愛いみたいだし。
母さんが言うように、僕は悪い人間なんだろうか。
僕はいない方が良い人間なんだろうか・・・
やっぱり、僕はいてもいなくても、どっちでもいい人間なのかもしれない・・・
雅史は、そんなふうに考えるようになっていた。
ある日、小さな事件がおきた。
英語の授業で、教科書を忘れてしまっていることに気がついた。
他の子だったら友達から借りるのだろうが、雅史には貸してくれる友達がいない。
さりとて、教師に教科書を忘れたことを言いに行く勇気もない。
雅史が教科書を机の上に出していないのを見つけた教師は、その日に限って虫の居所が悪かったのか、必要以上に責めた。
今までなら言われるまま我慢していたが、雅史はこの時ばかりは反発した。
どうして先生は僕をそんなに責めるんですか!
僕はそんなに悪い人間なんですか!
教科書を忘れたことはいけないかもしれないけど、気がついても家に取りに帰ることなんてできません。
貸してくれる友達もいません。
そんなに僕は厄介者なんですか!!」
教師は今までおとなしいと思っていた雅史の反発に面食らった。
しかし、それでも謝らない雅史が悪いと言って一歩も引かず、気持ちを汲もうとさえしなかった。
雅史の心の中にかつて感じたことのない怒りが湧き上がり、その思いが渦を巻き始めた。
このことがきっかけで、学校での雅史の反発は日ごとに大きくなってった。
授業中に勝手に教室から出て行ってしまったり、理由もなく教科書で机をバシン!と叩いて周りを驚かしたりする行動も出てきた。
雅史は、自分で自分をもてあますようになっていた。
いったい僕はどうしちゃったんだろう・・・
こんなことじゃいけないって分かってるんだ!
分かってるんだよ!!
でも、心の中のモヤモヤが多くなると、頭の中がおかしくなっちゃうんだ。
そうした行動は家庭でも出るようになった。
今までは母親が一方的に雅史に対して怒っていたのだが、この事件を境に、今度は雅史の方が母親にひどく反発するようになった。
だんだんと自分で自分の気持ちをコントロールすることができなくなり、時にはテーブルを叩きながら奇声を発するようになった。
黙ってじっと我慢していると、自分の心も体も分裂して、真っ暗闇の中に引きずり込まれる感じがするのだ。
奇声を発したり、テーブルを叩くことで、ギリギリのところで自分を保つことができていた。
しばらくの間何も言わずに成り行きを見ていた母親だったが、とうとう雅史に怒鳴ってしまった。
すると、雅史の張りつめていた糸が切れた。
母親を殴ってしまったのだ。
動揺している母親の様子を見て、ざまあみろ! という気持ちでいっぱいになり、気持ちがスカッとした。
いわゆる、家庭内暴力へと発展したのである。
驚いた母親は父親に相談したが、「 お前の躾が悪いからだ 」 と言って取り合おうとしない。
姑にもそのことを話したが、夫と同じで 「 お前のせいだ 」 と言って、逆になじられてしまった。
それでも、母親は何度も父親に雅史の変貌ぶりを話したため、やっと父親が雅史と話すことになった。
お前、母さんを殴ったんだってな。
学校でも荒れてるって言うじゃないか。
いったいどうしたって言うんだ。
もう小さい子供じゃないんだ。
お前がそういう態度を取り続けていたら、妹の慶子も真似をするから、いい加減大人になれ!
ただでさえ成績が悪いのに、これ以上素行まで悪くなったら、父さんも母さんもお前のことをかばいきれないんだからな。」
それを聞いていた雅史の中で何かが壊れた。
突然頭の中がカァー!っと熱くなり、回りにある物を手当たり次第に壊し始めた。
そして、父親に殴り掛かったのだ。
さらに、床の上に倒れた父親に馬乗りになって、数発殴った。
父親がぐったりとしたのを見て、雅史は思った。
なんだ、父さんなんて弱いじゃないか。
今までこんなヤツのことを怖がっていたのか。
そう思ったとたん、父親に対して少しばかりの優越心が湧いた。
が、心の鬱積が消えたわけではなかった。
それ以後、イライラしたりすると、やたら物を壊したり、大きな音を立てたりするようになった。
すると家族が怖がり、腫れ物にでも触るような扱いをするようになった。
聡史は、みんなが自分を恐がっているのを見るのが面白かった。
いつしか食事は別になり、会話もなくなった。
以前は小言ばかりで、何を食べてもおいしくなかったから、食事が別々になったことはかえって聡史の心を安定させた。
そして、母親が怒鳴らなくなったので、とりあえず、雅史の家庭内暴力は次第に小さくなっていった。
そんな雅史も高校に進学した。
高校を卒業したあとは大学ぐらいは出てくれないと世間体が悪い、と言われたが、結局大学へは行かず、小さな食品会社に就職した。
就職をきっかけに、家を出て、会社の寮に入ることにした。
これは雅史に手を焼いていた家族の意向でもあったし、雅史自身の希望でもあった。
家を出れば、母親から解放されるから、ストレスも少しはマシになるかもしれない。
引っ越しの当日、あまり口をきいたことがない妹が話しかけてきた。
お兄ちゃん、いいなあ。
お兄ちゃんがいなくなったら、お母さんやお婆ちゃんの愚痴は私が聞くことになるのかなあ。
もしそうなったら、お兄ちゃんのところに家出して行くから、その時はよろしくね。」
雅史にとっては意外な言葉だった。
まさか妹が知っていたとは。
妹は可愛がられていただけに、自分のことなんか理解していないと思っていた。
理解してくれている人が一人いた。
そう思うだけで、先に進む気持ちが少し強くなった。
会社では納品係になり、得意先を回ることが多かった。
ある日のこと、得意先のB店から電話が入り、注文数と違う量が納品されたというクレームが入った。
おまけに、伝票のあて先まで違っていたというのだ。
同僚の江田が忙しいというので雅史が手伝ったのだが、その時A店に出す出庫伝票をB店として出してしまったのだ。
得意先が変われば売値も変わる。
ましてや、A店とB店はライバル的な店だ。
他の店ならいくらでも修正がきく。
しかし今回は、A店とのやり取りがB店に漏れてしまったことが大問題なのだ。
いずれ、A店からも何らかのクレームが来るのは目に見えている。
会社に大損をさせてしまうのは覚悟しなければいけない。
とんでもない間違いをやっちゃったなあ。
俺が叱られるよ。」
と江田に言われ、返す言葉もなかった。
ミスをしたのは自分だし、会社の信用を下げた上に、経済的な損害も負わせてしまった。
もしかしたら、損をさせてしまった分は、自腹を切らされるかもしれない。
それに、上司に叱責され、責任を追及されるのは目に見えてわかっていた。
そう思っていた時、課長から呼び出しがあった。
雅史は今後自分はどうなるのかと不安がいっぱいで、課長の元に行った。
そこには課長と主任が難しい顔をして待っていた。
君はこの責任をどう取るつもりなのかね。
この大損害をどうやって埋めるつもりなんだ!」
課長はことの経緯を聞かずに、頭ごなしに怒鳴った。
返す言葉がなく、ただ 「 申し訳ありませんでした 」 と言って頭を下げるしかなかった。
課長の叱責が終わり、主任と一緒に廊下に出た。
雅史は、今度はこの主任から叱られるのかと思うと、心が張り裂けそうになっていた。
過去の経緯から、理由も聞かずに一方的に叱責されるのが恐くなっていたのだ。
いわゆる、PTSDである。
雅史君、得意先の入力をミスした経緯をちゃんと話してくれないか。」
雅史は自分の担当ではなかったが、江田があまりにも忙しそうだったので手伝ったこと、その日に入力した件数は約120件あったこと、間違えないように意識を集中していたつもりだったが、件数が多かったせいもあって、ふと気を抜いた時に起きたのかもしれないと話した。
主任はその一連の説明を聞いて、雅史に言った。
わかった。
ミスはわざとするものではないし、特に君の場合は江田を手伝おうという善意だったから、私は君を咎めるつもりはないし、君に責任を押し付けるつもりもない。
いつも見ていたが、君の仕事振りはなかなかのものだ。
ただ、今回の場合、俺の立場上、どういう経緯でミスにつながったかを知っておかなければいけないし、部長にも説明しなければいけないから話してもらったまでだ。
課長の言ったことは気にするな。
責任は全部私がとるから心配しないでいい。
そのための上司なんだからな。
君は何も心配しないで、今まで通り頑張って働いてくれたまえ。
頼むぞ!」
主任のその言葉を聞いて雅史は驚いた、と同時に涙が込み上げてきた。
物心がついてからの記憶は、叱られたりなじられたりしたことばかりだ。
だから、今回もそうだろうと思うと、頭の中はパニック寸前だったし、身体には震えがきていた。
ところが、そうじゃなかった。
主任は自分を叱責するどころか、認めてくれたし、励ましてもくれた。
責任は全部自分が取るとまで言ってくれた。
こんなことは初めてだ。
僕は、この主任に恩返しをしなければいけない。
その後、雅史は主任が言ったことを、江田に話した。
すると、江田はかつての主任のことを話してくれた。
江田が言うには、主任は以前は課長にまで昇進していたが、部下が犯した大きなミスの責任を取ってクビになりそうになったことがあったのだという。
ところが、部下たちが上に掛け合ってくれたので、クビにはならなかったが、主任に降格という形にすることで収拾が付いたということだった。
そうか、そういうことがあったんだ。
主任は、大きな人なんだ。
雅史はそれ以降、がむしゃらに働いた。
この主任に恩返しをするつもりで働いた。
それ以降も小さなミスはあったが、主任はことあるごとに雅史をかばい、助言し、盾になってくれた。
よく見ていると、自分だけにではない。
誰に対してもそうなのだ。
だからみんな安心して、生き生きと働けるんだ。
ある日、同僚の送別会があり、二次会で主任と話す機会ができた。
お酒の力が手伝ったのか、主任は自分の生い立ちを話し始めた。
2歳の時に生母が亡くなり、5歳の時に継母が来たが、その継母は気に入らないことがあると体罰を与える人だった。
青あざがない日はなく、父親が出張の時は、この日とばかりに継母はどこかに遊びに行くので、食事抜きではあったが、ホッとする日だったという。
自分が家族を持つまでは継母のことが許せず、人間不信にさえなっていたらしい。
ところが、家族を持って子供が生まれてからは、もしかしたら、あれは自分を厳しく躾ていたつもりだったのかもしれない、と思えるようになった。
そして、少なくとも自分だけは子供の盾になり、あらゆることから守っていこうと決心したと言う。
その後、10年前に父親が亡くなって継母が1人残された。
それ以降、1年に1度だけ電話をしているという。
完全にしこりが取れたわけではないが、あの環境で育ったことは、今では感謝に変わりつつあるという。
なあ、雅史。
いつも思うんだが、世の中の人たちは、何かにつけて責任の所在を追及し合って社会を生きていると思わないか。
いつも誰かに責任をなすり付け、自分を安全圏に置きながら生きているんだ。
俺の大学時代の友人に、かなりぐうたらなヤツがいるが、そいつが言うには、自分がぐうたらなのは、両親が甘やかして育てたせいだと言う。
金で困っているヤツは、両親がもっとしっかりしてくれていたら、もう少しマシな生活ができているのに、と言う。
どういう生活にしろ、みんな自分が気に食わない部分とか、自分の努力の足りなさを人のせいにするんだな。
虐待されて育った子供は、自分の子供を虐待するようになると言うけれど、全員がそうなるわけじゃない。
俺は虐待されて育ったおかげで、自分の家族を守りたいという気持ちが人一倍強い。
会社が自分の能力を認めないから良い仕事に就けないと言うヤツもいるが、それは違う。
社長は社長で、会社の業績が悪いのは社員に能力がないからだと言うが、それも違う。
社会が悪い、政治が悪いと言うヤツも多い。
いつも誰かに責任を擦り付ける生き方をしていたら、人はどこで幸せを感じたらいいんだ。
人は、自分が置かれた辛い境遇に執着するあまり、時間を止めてしまうことがある。
それではいけないんだ。
雅史の置かれてきた境遇は確かに辛かっただろう。
しかし、その境遇をバネにして、先に進まなくてはいけないんだ。」
主任はまるで自分で自分に言い聞かせるように、頷きながら話した。
そして、更に酒の酔いが回った頃、温かい大切な家庭へと帰って行った。
酒の席ではあったが、主任の話は雅史の心をつかんだ。
自分を振り返り、他人の生活や性格を見ると、主任の言っていることは正しいと思った。
自分は今まで、嫌なことは全て母親のせいにしてきた。
今だって母親が悪いと思っている。
それどころか、嫌悪感さえ抱いている。
しかし、ちゃんと考えてみると、母親だって祖母からひどい仕打ちを受けていたに違いない。
だからといって、僕に八つ当たりしていいわけがない。
いろいろな思いが交差したが、主任の話を聞いて、思い切って母親に電話をしてみることにした。
電話に出た母親は、雅史の電話をとても喜んでくれた。
祖母が亡くなり、妹が遠くに嫁いだので、今は父親と2人で静かに暮らしていると言う。
不思議な感覚だった。
今まであれほど嫌だった母親が、愛しくてたまらないのだ。
声が聞けただけで、地に足がついたように感じた。
この時、本当は自分は母親を求めていたのだということに気がついた。
自分は母親に優しくされたい、母親に包まれたいとずっと願っていたのだ。
それが叶わなかったから、反発していたのかもしれない。

― end ―

2009 / 12 / 16 初編
2014 / 05 / 25 改編
         


























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