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第5話 「ニコニコ大作戦 」
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朝早くから、トットットッ、スッスッスーと音がする。 陽子はいつものようにその音で目を覚ました。 大きな音ではないが、子供のころから慣れ親しんできた音だ。 |
陽子の父親は小さな畳屋を営んでいる。 いつも聞こえてくる音は、い草を切ったり、畳表を整えるために叩く音。 大きなお店では機械化されているというのに、陽子の父親は、今でもかたくなに手縫いを貫いている典型的な職人だ。 |
祖父が早くに亡くなったことで、父親は母子家庭で育った。 子供の頃はとても貧しくて高校へは行けず、中卒で畳屋に就職した。 それ以外の詳しいことは何も話してくれないからわからないけれど、母親とお見合い結婚して今に至っている。 |
若い頃から親方に仕込まれたせいなのか、目上の人には低姿勢なのに、自分より下の者には相当のワンマンだ。 そのワンマンをいつもひっかぶっているのが母親。 ストレスが溜まってくると、ことあるごとに母親に怒鳴り散らしている。 |
仕事でも、気に入らない客が来るとプイッと家を出て、釣りに出かけたりパチンコに出かけたりする。 時には仕事を母親にやらせて、自分は昼間っから飲みに行くこともある。 それなのに、母親の仕事に不備があると烈火のごとく怒りまくる。 |
陽子はそんな父親が大嫌いだ。 |
一人っ子の陽子は、端から見たらとても大切にされているように見えるらしい。 ところが、陽子は父親にも母親にも遊んでもらった記憶がない。 父親は自分の子供にあまり関心がなく、陽子がどこへ行こうと、何をしていようとさほど気に留めない。 というより、自分の視界に陽子が入るだけで、おもむろに嫌な顔をしたりすることもある。 |
だから、陽子は怒鳴られることはあっても、きちんと何かを教えてもらったり、褒められたりしたことがない。 母親もまた父親の目を気にして、陽子と話すことをあまりしない。 |
こんな環境の中で陽子は育ってきた。 |
小さい頃から、陽子はできるだけ父親を刺激しないように気を配っていたし、母親が怒鳴られている時は耳を塞いで聞かないようにしてきた。 母親を不憫だとは思いつつも、父親が怒鳴る声が恐いから、遠目で見ているのが習慣になってしまっていたのかもしれない。 |
友達は、「 陽子は一人っ子だから何でも買ってもらえるし、なんでも独り占めできるからいいよねえ 」 と羨ましがる。 しかし、陽子はそういう言葉を聞くたびに暗い気持ちになる。 |
陽子という名前は明るいイメージがあるが、それに似合わず、無口でとても大人しい。 しかし、大人しいと言われると、意気地なし、陰気、ダメ人間 ・・・ そう言われているように感じてしまう。 たまに学校の先生が褒めてくれることがあるが、ちっとも嬉しくないし、むしろ嫌味にしか取れない。 |
陽子は回りに流されることが協調性だと思っていたから、めったに自分の意見を言うことがない。 周りに合わせるために、目だたないように、誰にも逆らわないように中学時代を過ごした。 |
こんなふうだから、誰も陽子の心が屈折しているとは思わない。 それに口数が少ないから、クラスでは存在感がなく、体育の授業の時など、列に並んでいなくても誰も気がつかないぐらい稀薄だ。 |
そんな陽子もやがて高校を卒業して、就職した。 この頃からだろうか、陽子は自分というものを考えるようになった。 それは、合コンに誘われて行った時がきっかけだった。 |
互いに自己紹介をした後、集まった男性が陽子に声をかけたが、1時間もすると、誰も見向きもしなくなった。 その時、1人の男性が面と向かって言った。 |
「 |
オマエなあ、顔は可愛いのに、陰気で面白くないヤツだなあ。
何が楽しみで生きてるの? 」 |
「 |
・・・・・ 」 |
答えることも言い返すことも、冗談でかわすこともできなかった。 おもむろにダメ人間と言われたような気がして、走って逃げたい衝動に駆られたけれど、それもできない。 このとき初めて、自分がコンプレックスの塊であることに気がついた。 |
私って、一体なんだろう ・・・
もし私が死んだら、両親は泣くだろうか。
きっと泣かないだろうな。
友達は私のことなんか眼中にないから、こんな私がいなくなっても、気にしないだろうし。
会社だって・・・
今の仕事は好きだけど、社員の補充なんてすぐできるから・・・
自分はなぜ生まれてきたんだろう、なぜ生きているんだろう。
私一人がいなくなったって、誰も困らないし、誰も気にしないし・・・
だったらいなくてもいいのかな・・・ |
陽子はそんなふうに考え始めていた。 |
ある時、一緒に仕事をしている同僚に聞いてみた。 |
「 |
私がいなくなったら、ウチの課は困るかなあ 」 |
「 |
辞めるの?
陽子の仕事だったら誰でもできるから、辞めたって大丈夫だよ 」 |
同僚は、転職したかったら気にせずしたらいい、というつもりで言ったのだが、陽子は、そうは思わなかった。 |
私なんか、いてもいなくたって、どっちでもいいんだ ・・・
やっぱり私のことなんて、誰も気にしていないんだ ・・・ |
そんなことはずっと前から分かっていたのに、それを改めて目の前に突き付けられたようでショックだった。 |
ある日、陽子と同じ歳の由香が事務員として中途入社してきた。 そして、陽子は上司から、先輩として由香に仕事を教えるようにと言われた。 |
由香はお世辞にも美人とは言えないが、とても明るくて誰とでも話す人だから、すぐに皆と打ち解けた。 陽子には、由香の天真爛漫さがまぶしい。 |
その由香が、会社帰りに陽子を食事に誘った。 断る理由もなかったので、行くことにした。 |
由香はお好み焼きを食べながら、いろいろなことを面白おかしく話した。 不思議な感覚だ。 こんなふうにして人の話を聞くのは初めてのような気がする。 |
由香が陽子に言った。 |
「 |
陽子さんって静かな人ですよね。
品があっていいなあ。
私なんか粗雑だから、陽子さんみたいな人に憧れちゃうんです 」 |
陽子は、初めて言われた言葉にドギマギした。 こんなに存在感のない自分なのに、まさか自分のことを憧れの目で見てくれていたなんて。 何かの間違いか、それともバカにしているのか、そう思った。 それでも、こんな自分なのに、普通に認めてもらえたようで嬉しかった。 |
その言葉がきっかけとなって、陽子は由香に少しずつ自分のことを話し始めた。 父親の横暴のせいで自分は引っ込み思案になったし、無口になってしまったことを。 |
すると、由香は、「 人のせいにしているうちはダメね 」 と言った |
人のせいにしている? 私が? |
今まで自分のことなんて話したことがなかったから、こういうことを言われたのも初めてだった。 |
「 |
だって、お父さんが横暴だから、私がこうなったのは事実よ 」 |
「 |
確かにそうだとは思うけど、それを全部お父さんだけのせいにするのはズルイと思う。 だいたいさあ、誰かのせいにしているってこと自体、自分が努力していないってことだよ
」 |
由香は続けた。 |
「 |
陽子さんは誰にも心を開かないから、他の人も話しかけにくいのよ。 良くないと気がついたら、自分で変える努力をしなくっちゃ。 何もしないで待ってるだけというのはよくないと思うな。 まず自分が変わらなくっちゃね
」 |
「 |
自分が変わる?」 |
「 |
そう、まず自分が変わることから始めなくっちゃ 」 |
「 |
どうやったら変われるのかしら・・・ 」 |
「 |
すぐにできるのは、ニコニコすることかな。
これだけでもずいぶん変化を感じるはずよ 」 |
「 |
たったそれだけ? 」 |
「 |
そう、たったそれだけ (^_-) 」 |
半信半疑ではあったが、由香の言葉を信じてみようと思った。
とにかく、理由はなくてもできるだけニコニコしてみよう。 |
変化はすぐに現れた。
同じ課の人がいっせいに陽子に話しかけてきたのだ。 |
「 |
陽子さん、何かいいことでもあったの? 」 |
「 |
え、どうして? 」 |
「 |
だって、とっても楽しそうだから。
それに、なんだか今日はきれいだ。
おっと、これはセクハラになるかな、ハッハッハ 」 |
私が楽しそう・・・?
私がきれい・・・? |
こんなふうに声をかけられるなんて思ってもみなかった。
それも、ニコニコを心がけてすぐのことだったから。 |
お昼休みに、由香が話しかけてきた。 |
「 |
ほらね、さっそく効き目が現れたでしょ 」 |
「 |
ええ。 たったこれだけなのに、どうして? 」 |
「 |
気持ちが外向きになったからよ。 誰でも内向きになっている人には話しかけにくいものなのよ。 いつもしかめっ面しているような人には話しかけづらいじゃない。 例えば
・・・ えーと、そうそう、あの常務を見て。 話せば良い人だと思うけど、いつも怒ったような顔をしているから誰も寄り付かないでしょ。 だけど、部長を見て。 正確はイマイチだけど、パッと見は笑顔だから、話しかけやすいのよね。 ニコニコは吸引剤なの
」 |
「 |
へぇー、そうなんだ 」 |
「 |
もう一つ言っちゃおうかな。
ニコニコ笑顔に慣れたら、こんどはニコニコ挨拶をしてみて。
会う人全部に、自分の方から、いつもよりほんのちょっと大きな声でニコニコしながら挨拶をするの。 ダメ元でやってみて。 もっと変わるから 」 |
陽子はその言葉を信じて、思い切ってニコニコしながら挨拶をしてみた。
まだ大きな声は出せないけれど、自分では精一杯の声で。 |
しかし、今まで笑顔で人に接することをしてこなかったから、すぐに仏頂面になってしまっている自分に気が付いた。 それで、笑顔を忘れないために、手首にマジックで星マークを書いてみた。 それを見るたびに笑顔を思い出すために。 |
効果は3日後に現れた。
朝、会社に入る時には手首の星マークを確認して、ニコニコしながら、「 おはようございます 」 と言うと、男性社員から、「 ねえ、今日の帰り、みんなと一緒に飲みに行かない?
」 と誘われたのだ。 |
陽子にとっては、これは驚きだった。
課長もニコニコして、「 陽子君、すまないがお茶をお願いできるかな 」、と言ってきた。
今までは、来客の時にお茶を頼まれることはあっても、個人的に頼まれることはなかったから。 |
陽子は、お礼も兼ねて由香を食事に誘った。 |
「 |
由香さん、ありがとう。
人生の色が変わったような気がするわ。
でも、なぜ私にこんなにすごいことを教えてくれたの?」 |
「 |
実はね、私も陽子さんと同じだったから、他人事には思えなかったの。
以前ね、自分はブスだから誰にも相手にされないんだ、なーんていつもひがんでいてね。 そうしたら、ある人がニコニコ体験を話してくれたの。 それをやってみたら、ブスの私でも少しはモテることがわかって、大喜びしたってワケ
」 |
「 |
へぇ〜、こんなに明るい由香さんが、私みたいだったなんてウソみたい 」 |
「 |
でしょう。
もう一つ伝授しちゃおうかな。 イヤなヤツを変えるコツ、知りたくない?」 |
「 |
ええっ、そんなのあるの?」 |
「 |
それはね、何でもいいから褒めること。 ウソはいけないけど、髪型でも靴でも、歩き方でも何でもいいから、とりあえず小さなことを少しずつ小出しに褒めるの。 そうすると、相手の態度が少しずつ変わっていくわ。 相手が変わると、自分も変わるわよ
」 |
陽子は思った。 あの父親が変わるだろうか。 いや、あの人だけは絶対に変わらない。 でも、今のこの状況から何とか脱却しなければ。 よし、ダメでもいいからやってみよう。 そう思った。 |
さっそく家に帰ってから、ちょっと大きな声でニコニコしながら、 |
「 お父さん、ただいま。 お父さんが仕事している姿っていいなあ 」 と言ってみた。 |
すると、「 バカ言うな!」 と怒鳴られた。 |
次の日もう一度、「 お父さんの仕事している姿って、ホント、カッコいいよ 」 と言ってみた。
昨日と同じように、「 バカ言うな 」 とは言ったが、怒鳴る感じではなく、ちょっと照れているように見えた。 |
その次の日は、「 お父さん、お仕事無理しないでね 」 って言ってみた。
すると、今までより小さな声で、「 バカ言うな 」 と言った。
気のせいか、少し嬉しそうに見えた。 |
日常では相変わらず怒鳴ることが多いので、ムカつくことも多いが、それでも何かにつけて話しかけたり、褒める言葉を続けてみた。
正直言って、褒めるところがない人を褒めるのは苦痛だ。 そんな時は無理しないでニコニコだけを心がけた。 |
1ヶ月ほどたったある日、母親がポツリと言った。 |
「 |
最近、お父さんねえ、遊びに行かずによく仕事をするようになったのよ。
どうしたのかしら 」 |
・・・ そうか、お父さん、変わってきたんだ。 |
陽子はもっと時間がかかると思っていたが、意外に早く功を奏してきたようだ。 |
そこで母親に由香さんのことを話して、ニコニコ挨拶を勧めてみた。
そうしたら、今まで怒鳴りっぱなしだった父親の怒鳴る回数が、だんだんと減ってきように感じる。 |
それどころか、たまにだけれど、オヤジギャグを言うようになってきた。
ちっとも笑えない寒いギャグだけれど、本人は嬉しそうに言っている。 だから、無理してでも笑ってあげると、鼻高々で満足そうにしている。 いつも笑うのはちょっと辛いけど、怒鳴るのが少なくなればお母さんも生活しやすくなると思うと、頑張って褒めたり笑ってあげるしかない。 |
陽子の誕生日が近づいてきた。
すると、父親の方から、一緒に外食しようと言い出した。 |
え? お父さん、私の誕生日を覚えていたんだ。
私になんかに関心がないと思っていたけど、そうじゃなかった。 |
外食といっても、近くのファミレスだが、家族で一緒に外食するなんて、初めてかもしれない。 |
食べながら父親が言った。 |
「 |
陽子、ありがとな。
お前は俺の自慢の娘だ。
嫁になんか行かなくてもいいから、ずっとここに居ろ 」 |
陽子は涙が溢れた。
自分なんていてもいなくても良いと思っていたのに、自分の居場所ができたことを実感したひと時だった。
父親の変わり具合にも驚いたが、自分の気持ちにも大きな変化が出てきたことにはもっと驚いた。 |
あんなに恐くて大嫌いな父親だったのに、愛しく感じられるようになってきたのだから。
由香が教えてくれたこと、これからは自分と同じような人がいたら、今度は自分がその人に教えてあげようと思った。 |
まだ彼氏はいないけれど、ニコニコ挨拶を心がけていたら、そのうちできるかもしれない。 そうしたら、お父さん、私お嫁に行っちゃうかも。 |
それから1か月ぐらいして、会社に出入りしている取引先の人から声をかけられた。 以前から、ステキな人だな、と思っていた人だ。 |
「 |
あのう・・・ 今夜、お時間ありますか・・・
一緒にお食事でもと思って 」 |
え? まさか・・・ でも・・・ |
陽子はニコニコしながら、 |
「 |
ええ、喜んで "^_^"」 |
―― end ――
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2009 / 08 / 08 初編
2014 / 04 / 10 改編 |
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