スピリチュアリズム

第13話 「小さな善意、大きな愛 」

インドはマザーテレサが骨をうずめた場所だ。
そのインドへ秀夫は転勤になった。
一度は訪れてみたいと思っていた国だったが、なかなか機会に恵まれなかった。
それが、転勤という形で叶った。
秀夫の仕事はIT関連のソフト開発。
現在のインドの技術は急速に伸びている。
インドの会社と提携し、更に開発を進めるためのプロジェクトに秀夫が抜擢されたのだった。
秀夫が関わっているインド人はみな裕福な家庭で育ち、学歴もある人たちばかりだ。
今はどんどん発展しつつあるインドだが、収入の格差は日本など比べ物にならないほどだと言う。
カースト制度が廃止になったとはいえ、それは法律上だけで、カーストはまだまだ根強く残っているとか。
そんな予備知識を持ってインドに赴任した。
インドに着いた翌日、同僚のインド人がムンバイの街を案内してくれた。
会社はメインストリートにあって、社宅はそこから歩いてほんの数分のところにある。
日本人から見ると古びたマンションに見えるが、ここインドでは高級マンションだという。
インドのムンバイという街は、とにかく人が多い。
どこに行っても人人人。
きっと、インドの大きな都市は、どこに行っても人が多いのだろう。
日本の渋谷も、こんなに多くの人がどこから湧いて出てくるんだろうと思う時がよくあるが、インドはそれ以上だ。
おまけに車やバイクのクラクションがあちこちで鳴り響いているので、相当にうるさい。
大通りはまだマシだが、一本裏の道は路上生活者で埋め尽くされている。
ゴミや糞尿がいたるところに散らかっているので、ひどい悪臭だ。
ここに住めば、この騒音や臭いにも慣れるのだろうか。
ムンバイの第一印象を一言で言うなら、ゴミ捨て場、とでも言おうか。
そして、何しろ信じられないぐらい暑い!
日本がどれだけ住みやすいかは海外に出てみるとよくわかる、と言っていた上司の言葉が思い出された。
特に水を始め、食べ物には極力注意しないと、氷のかけら一つで何日も下痢に苦しむことがあるという。
食事にしても、トイレにしても、何もかもが日本と違いすぎる。
あれこれ考えていたら、ここで生活していけるのだろうかという不安が出てきた。
当たり前のことだが、観光旅行とここで生活をするのとでは意味が違う。
同僚は秀夫の不安をすぐさま見抜き、
「 昔から言うだろう。 住めば都さ。 すぐに慣れるよ。」
と言ってくれた。
確かにそうだろう。
そして、こうも言った。
「 インドに限らず、どこの国に行っても日本人は特上のカモだから、泥棒やボッタクリに気をつけろ。 日本人は平和ボケしているからな。」 と。
特にタクシーと旅行会社は要注意だと教えてくれた。
自分は旅行に来たわけではないと言うと、旅行じゃなくても旅行会社に連れて行かれて、手間賃をとられるのだという。
何だか不思議だが、そういう事情がまかり通っているらしい。
あれこれ考えながら歩いていると、一人の少女が服の裾を引っ張っているのに気がついた。
その子はまだ6歳ぐらいだろうか。
彼女は上目づかいで、おずおずと私に向かって両手を出した。
同僚はその少女はストレートチルドレンだと教えてくれた。
親に捨てられたか、もしくは家族はいるのだが住む家もない最下層の人たちなのかもしれないという。
体はやせこけ、目だけが異様に大きく見える。
秀夫は手を差し出してきたその子の手を見ながら、上着から財布を出そうとした時、同僚が 「 やめておけ 」 と言った。
「 日本人は同情心が厚いが、インドでその情を出したら、たちまち丸裸にされてしまうぞ」、と言われた。
理解できないこともないが、目の前に痩せこけた女の子がいて、その子がいま自分に助けを求めているのだ。
それを放っておけと言うのか。
同僚の忠告を無視して、日本円にして100円ほどを女の子の手に握らせてあげた。
本当はもっとあげたかったのだが、同僚に言われた手前、それだけしかあげられなかった。
せめて、少しでもお腹を膨らませてくれたら。
たったそれだけの思いだった。
少女はにっこり笑って、「 ダンニャワード(ありがとう) 」と言って、走り去った。
しかし、その直後のことだった。
建物の影から見ていたのだろう、さっきの少女と同じぐらいの歳と思われる子供たちが何人も現れ、秀夫の前に次から次へと手を差し出してきた。
気がついたら、大人も集ってきて、子供に覆いかぶさるようにして手を出してきた。
すかさず同僚がポケットから小銭をつかんで取り出し、道に放り投げると、その小銭にワーッと群がった。
我先にとお金を取り合っているすきに、同僚が秀夫の手を引っ張り、逃げるようにその場を離れた。
秀夫は、かつて写真で見たことのある光景と同じだと思った。
それは、終戦直後の日本で、アメリカ兵の投げるチョコレートに群がった子供たちだ。
秀夫の脳裏には、その光景といま自分が遭遇したことが重なり、言葉にはできない苦しさを覚えた。
インドは、日本人には信じがたいほどの貧困社会が広がっている。
マザーテレサがいたのはコルカタだが、ムンバイも大して違わないだろう。
道端にはホームレスがゴミの上で寝ている。
寝ている人に多くのハエがたかっている時があるが、もしかしたら、それはすでに息を引き取っている人なのかもしれない。
それを気に留める人もなく、その横を多くの人が行き交っている。
何でも、カーストが違うと、汚らわしいモノ扱いになるらしい。
家畜以下の扱いをされている人も沢山いると聞いて、あまりのカルチャーショックに言葉を失った。
1ヶ月ほど経ったある日、秀夫は車に乗って1人で街に出かけてみた。
市場でいろいろ買い込んでいると、1人の少年がにこにこして 「 荷物を持ってあげる 」 と言って寄ってきた。
インドでは荷物を運ぶことでチップをもらい、生活している人がいることは知っていた。
しかし、秀夫は自分で運べる量だし、あの少女のこともあったので、その少年に荷物を運んでもらうのを断った。
あまりにもしつこく付きまとうので、根負けして持ってもらうことにした。
すると、蔭からそれを見ていた子供たちが何人か出てきて、我先にと荷物を引っ張りあった。
秀夫は仕方なく荷物を持ってもらうことにして、すでに見えている数メートル先の車までゾロゾロ歩いた。
運び賃を払う段になると、更に子供の数が増えていた。
その様子を見たら涙が止まらなくなった。
食べるのに困っている子供たちがこんなにもいる、そう思うだけで胸がつぶれそうになった。
翌日、また同じ場所に行ってみた。
すると昨日の少年が、また荷物を持たせて欲しいと言って声をかけてきた。
今日は買い物はしないから、その代わりに市場を案内して欲しいと言うと、少年は気持ちよくあちこちを案内してくれた。
一緒に歩く中で生活事情を聞いてみると、極貧だが、仲間同士で楽しくやっているように聞こえた。
1時間ほどあちこち回って、少年に案内料金としてレストランでの1食分のお金を渡した。
すると少年はとても喜び、そのお金を無造作にポケットに突っ込むと、手を振りながら足早に去って行った。
ところが、その翌日、ある人から昨日の少年のことを聞いた。
「 お前に金を貰ったダリットの少年が、仲間のリンチで死んだぞ 」 と。
もしかしたら、自分が渡したお金が原因だったのだろうか。
自分は善意のつもりでしたことだったが、こんな結果になるとは・・・
同情から出た善意は自分が満足するだけで、相手にプラスになるとは限らない。
それどころか、マイナスになることもある。
何かが起きても責任は取れないし、何の解決にもならないんだ。
とにかく、秀夫は人に施すことの難しさを痛感し、自分の甘さに打ちのめされた。
いろいろあっても、仕事は進めていかなければいけない。
殺された少年のことは重く心に引っかかっていたが、それも忙しさにまぎれて、だんだんと思い出すことが少なくなっていった。
そして、ムンバイの特殊な街にも次第に慣れていった。
数ヶ月が過ぎ、銀行へ行く用事ができて、会社の外で車を待っている時だった。
秀夫は誰かに突き飛ばされて転んでしまった。
一瞬何が起きたかわからなかったが、50メートルぐらい離れたところで一人の少年が初老の男性と何やら言い争っているのが目に入った。
ふと気がつくと、手にしていた鞄がない。
見ると、言い争っている少年が持っている鞄が自分のとよく似ている。
もしかしたら、ひったくり !?
そう思って駆け寄ってみると、やはり自分の鞄だ。
初老の男性は引ったくりの現場を見ていて、その少年を捕まえ、腕をつかんで逃げられないようにして鞄を返すように説得していたのだった。
ところが、秀夫が目の前に現れたとたん、少年はその男性をも突き飛ばし、秀夫の鞄を持ったまま逃げて行ってしまった。
鞄の中には大した物は入っていないので慌てることはなかったが、男性が怪我をしていないかが心配なので、病院へ行こうと誘った。
ところが男性は大丈夫だからと言って、立ち去ろうとした。
それならということで、治療費を手渡そうと思ってお金を出したが、男性はそういうつもりではないと言って受け取らない。
どうしたらいいのだろうか・・・
その気持ちを察したように、男性は 「 では、インドと私のために祈ってください。 それだけで十分です。」 と言った。
その男性は陽には焼けていたが、白人のように見えた。
祈りなどしたことがなかったので、何をどう祈ったらいいのかをたずねると、 「 インドがより良く発展するように、そして、私に神の仕事が与えられるように祈ってください。」と言った。
秀夫は祈ることを約束したが、このまま別れることがためらわれた。
それでお礼方々、男性の話を聞かせてもらうためにもう一度会ってほしいと頼んでみた。
男性は快く承諾し、自分の名前はマイケル・ホワイトでイギリス人だと自己紹介してくれた
秀夫は、今まで色々な人と会ってきたが、日本人でさえこうした純粋な心を持った人に出会ったことがない。
だから、お礼だけを言って別れたくなかったのだ。
その週末に、ホワイト氏は秀夫を自宅に招いてくれることになった。
家はスラムのはずれにあって分かりにくいからということで、迎えに来てくれた。
スラム街の路地は1人がやっと通れる広さで、スラムの家々は瓦礫や木くずで造られている。
下水設備がないので、糞尿も何もかもが全てが垂れ流しだ。
ここにはトイレというものはないらしい。
秀夫は、口と鼻を手で押さえながら、ゴミの上を歩くしかなかった。
ホワイト氏の話によると、狭い1部屋に3家族が一緒に暮らしているのはざらだという。
屋根のあるところに住んでいるのはまだマシで、路上でしか生活できない人たちもいるという。
それはダリットという層の人たちのことで、不可触民、つまり触ると穢れるから、触るのはもちろん、見てもいけないし、声を聞いてもいけない人たち、ということらしい。
ダリットは、カースト以前の低い層だという。
ホワイト氏の家に着いた。
スラム街の家々よりは頑丈そうだ。
食事はとても質素であったが、この上なく美味しく感じられた。
話をしていて、ホワイト氏が急激に発展しつつあるインドを危惧していることがわかった。
経済が発展していく裏で起きている貧困の事実は、秀夫が少なからず体験したことと一致した。
ホワイト氏は、ここは人間が人間として住むところではないと言う。
しかし、ここしか居るところがないから、居るしかないとも言う。
食事が終わってから、話の続きをしてくれた。
ダリットは家畜より下だと位置づけられているというのだ。
以前、使用人として雇われていたダリットが、のどが渇いたからと言って家畜用の水を飲んだら、それだけで殺されてしまったという話をしてくれた。
ダリットは、気軽に水も飲めない程だという。
それに、殺された人がダリットであるなら、警察も全く関与しないのだとか。
ホワイト氏は淡々と話してくれたが、秀夫は衝撃を受けるとともに、自分が日本人で良かった、と思っている自分の気持ちに矛盾を感じて仕方がなかった。
ホワイト氏は、親のないダリットの子供を5人引き取って、文字や計算、料理、掃除の仕方などを教えながら一緒に暮らしていた。
親がいる子たちにも、興味があれば、文字や計算を教えているという。
その子供たちが挨拶してくれたが、どの子も笑顔が素敵だ。
ホワイト氏は自分の夢を語ってくれた。
その夢というのは、親に捨てられて住むところもなく、食べ物を求めて必死になって生きなければいけない子供たちを救いたいということだった。
「 いくら能力があっても、ダリットである限り一生家畜以下の生活をして行かなければいけない。 せめて、文字と計算力だけでもあれば、少しは人間らしい生活が送れるはずだ。」 と熱く語ってくれた。
ホワイト氏の生活は秀夫に衝撃を与えた。
自分は日本人として何不自由なく生活し、頭脳だけを使い、汗を流すことなく給料をもらっている。
日本では平均的な給料の額だが、インドではかなりの高給だ。
自分はまだ独身だということもあり、ここインドではお金を使うところがないから、どんどん貯まるばかり。
もちろんいつかは結婚するだろうし、老後のことを考えたらお金はいくらあっても邪魔にはならない。
でも、そういうことじゃないんだ。
秀夫はしばらく仕事が手につかないほど考え込んだ。
何をどうしたら一番良いんだろう・・・
自分のために自分が稼いだお金を使うなんて当たり前だけど、それでいいのか・・・
割り切れない思いがくすぶリ続けた。
それから1ヶ月が過ぎ、同僚とレストランで食事をすませて外へ出ると、1人の少女がうずくまって泣いているのに気がついた。
わけを聞くと、父親とはぐれたのだと言う。
その少女の顔を見ると、どこかで見たことがある顔だ。
あ、あのホワイト氏のところにいた子だ!
秀夫は、近くにホワイト氏がいるに違いないと思って探したが、見つからなかったので、家まで送り届けることにした。
家に行くと、ホワイト氏が心配して待っていた。
そして、少女を連れてきたのが秀夫だと知って驚いた。
ホワイト氏は秀夫に心からのお礼を言い、その場でひざまずき、神に祈り始めた。
その光景に秀夫は言い知れぬ感動を覚え、涙が次第にあふれだした。
その時、秀夫はわかった。
何も迷うことはなかった。
自分が求めていたものがここにあったのだ。
秀夫はまだ漠然とはしているが、ホワイト氏に自分の夢を話すと、彼は身を乗り出してその話を聞いてくれた。
話しながら、秀夫は自分の夢とホワイト氏の夢が重なった瞬間を感じた。
その後、秀夫は会社で仕事をしながら、一つのホームを建設することを決めた。
ダリットの子達の学校をつくり、新しいインドを作り上げていく人材を育成する場を計画したのだ。
人材を育成するには、学力だけでなく、人格も心も育てなければいけない。
秀夫は持っているお金全てを、ホームにつぎ込むことにした。
金に操られて、金のために生き、死に金を使う人生だけにはしたくない。
生きたお金の使い方がしたい。
人を生かすことで、自分が生かされる人生にしたい。
しかし、自分ひとりではできない。
でも、このホワイト氏とならやっていける。
ホワイト氏は自分の夢も叶うということで、喜んで承知してくれた。
その夜、秀夫は心から神に感謝する祈りを捧げた。
いま秀夫は会社で働きながら、空いている時間は子供たちと遊んだり、勉強を教えたり、寝食を共にしている。
全てが順調には行かないことはわかっている。
きっと苦難の連続だろう。
もしかしたら、路頭に迷うかもしれない。
でも、自分の一生をかけてやっていく道が見つかったのだから、どんな苦難であってもきっと喜んで乗り越えていけるに違いない。
それでも乗り越えられないと感じるほどの苦難に出会ったら、マザーのいたコルカタに行って、そのエネルギーと息吹を取り入れよう。
最初は同情という小さな善意から始まったインドでの生活だったが、ホームの建設が現実になった今、本当の善意、本当の愛というものは、神に通じる心があって初めて成り立つものだということを、多くの体験を通して教えられた思いがした。

― end ―

2010 / 03 / 22 初編
2014 / 06 / 21 改編
         

















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