スピリチュアリズム

スピリチュアリズム

シルバーバーチを読みながら

 
2019-12-24 「クリスマス」

クリスチャン同様、私たちスピリチュアリストにとってもクリスマスはとても意味のある日です。
今頃はシルバーバーチを含めて多くの進化した霊たちがイエスの主催している評議会に出席していることでしょう。
11巻の159ページからです。
私たち霊団の指導的役割を担う者は、誕生に相当する人生で最も大切なこの時期(クリスマス)に一堂に会して祝い合うのです。

帰還すると評議会のようなものを開き、互いに自分たちの霊団の経過報告をし、どこまで計画通りに行き、どこが計画通りに行っていないかを検討し合います。
それとともに新たな計画を討議し合います。
私たちを地上へ派遣した神庁の方々とお会いするのもその時です。
その中にかのナザレのイエスの雄姿があるのです。
イエスは今なお人類に古来の大真理すなわち “愛は摂理の成就なり” を教える大事業に携わっておられます。
そのイエスが私たちの業績に逐一通じておられるお言葉を述べられ、新たな力、新たな希望、新たなビジョン、新たな目的をもって邁進するようにと励ましてくださる時のそのお姿、そのお声、その偉大なる愛を、願わくば皆さんにも拝し聞きそして感じ取らせてあげられればと思うのですが…


2019-12-7 「厄介な肉体」

「古代霊は語る」 を読み始めたら、オリバー・ロッジの言葉が書いてありました。
53ページです。
われわれはよく 「肉体の死後も生き続けるのだろうか」 という疑問を抱く。
が一体その死後というのはどういう意味であろうか。
もちろんこの肉体と結合している五、七十年の人生の終わった後のことに違いないのであるが、私に言わせれば、こうした疑問は実に本末を転倒した思考から出る疑問にすぎない。
というのは、こうして物質をまとってこの地上に生きていること自体が驚異なのである。
これは実に特殊な現象というべきである。

私はよく 「死は冒険であるが、楽しく待ち望むべき冒険である」 と言ってきた。
確かにそうに違いないのだが、実は真に冒険というべきはこの地上生活そのものなのである。
地上生活というのは実に奇妙で珍しい現象である。
こうして肉体に宿って地上に出てきたこと自体が奇蹟なのだ。
失敗する霊がいくらでもいるのである。

霊界から見れば、肉体の死後にも生命があるのは極めて当たり前のことであろう。
いってみれば地上の生命などは朝露のようなもので、日の出とともに蒸発してしまうはかない存在なのである。
とは言え、生きている限り肉体というのは実に厄介なシロモノである。
地上生活の困難の大部分は肉体の扱いにくさから生じているといってよい。
肉体をまとっていくこと自体がまず厄介である。
そして、死ぬ時もまた厄介である。
その生から死への間もずっと手入れが厄介である。
が肉体がわれわれではない。
少しの間 ― ホンのちょっとの間だけ使用する道具にすぎないのである。
オリバー・ロッジのこうした表現はシルバーバーチより地上寄りの表現だなあと思いました。

地上に近いけれど霊界から見た地上なので、とても新鮮で斬新な感じを受けました。

肉体に宿って地上に出てきたこと自体が奇蹟
地上で奇蹟というと、医者から見放された人の病気が治るとか、死んだ人が生き返るとか、そういうことを言うと思います。
でもオリバー・ロッジは私たちが肉体をまとって生きていること自体が奇蹟だと言っています。
今地上で生きている自分の存在自体が奇蹟だとは、とっても不思議な感じです。

そして、言い得て妙なのが、
生きている限り肉体というのは実に厄介なシロモノ」

確かにそれは誰しもが痛感するところだと思います。
地上で生活していく上で金銭はどうしても必要不可欠。

子供に食事を食べさせられなくて、学校給食が唯一の食事だという生活をしている人、派遣切りで車中生活を余儀なくされている人もいれば、働いても働いても楽にならないワーキングプアと言われる人たちのことを知ると、肉体を維持することの大変さに心が痛みます。

今地上で生きていること自体、珍しい現象で奇蹟なのだというのをしっかり自覚できれば、肉体を維持するのが厄介だとは思わなくなるのかもしれません。

2019-3-28 「偶然はない」

「シルバーバーチの霊訓」に出会う前、真理というものを知らずに生きていた頃、友人からシルバーバーチの話を聞きました。

それは、「偶然というものはない、すべてが必然」 という内容でした。
当時私は、世の中は必然というものはごくごく一部で、ほとんどが偶然によって成り立っている、と考えていました。

だから、「シルバーバーチが偶然というものはないと言っている」 と聞いたところですぐに納得できるわけではなく、むしろ理解不能に陥ってしまいました。

聞いた翌日、ある人と話をしたいのだけれどあまり仲が良い方ではなかったため、できれば偶然に道で出会えたらいいのに、と思っていました。
そう思って家を出たら、偶然にもその人が歩いてきたのです。
話を聞いた翌日のことですから、心底驚きました。
挨拶をきっかけに話が弾み、意外にもその人の別の面をすることが出来たのです。

その人と別れてから、友人から聞いた話が頭の中を駆け巡り、どう考えたらいいのか、どう理解したらいいのかで頭の中がパニック状態になりました。

あの友人と偶然出会えたと思ったけれど、あれは必然だったのか。
自分は何か見えない糸で操られている。

そんなこんなが頭の中を駆け巡りました。
一つとして偶然というものが無いのです。 偶発事故というものが無いのです。 すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。 霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかも一目瞭然と分かるようになります。(1巻 P59)

人生の真っただ中で時としてあなた方は、いったいなぜこうなるのかとか、いつになったらとか、どういう具合にとか、何がどうなるのかといった疑問を抱くことがあることでしょう。 無理もないことです。 しかし私には、全てはちゃんとした計画があってのことです、としか言いようがありません。 天体の一分一厘の狂いのない運行をみれば分かるように、宇宙には偶然の巡り合わせとか偶然の一致とか、ひょんな出来ごとといったものは決して起きません。(1巻 P71)

理屈はどうであれ、治療家が痛みを軽減したり、ラクにさせたり、治癒させたりすることができるという現実は、そこに何らかの法則が伴っているという証拠であり、同時にそれは、その患者の魂がその救いを得る段階まで来ていたことを意味します。 偶然とかまぐれとかで起きているのではありません。(2巻 P47) 

これまでを振り返ってご覧になれば、あなた方の生活の中に単なる偶然では説明のつかないものが数々あること、私ども霊団とのつながりができてからというものは、援助の確証が次々と得られていることを示す具体的例証を発見されるはずだということです。(2巻 P126)

宇宙間に発生するもので不測の事態、偶然の出来ごとというものは一つもありません。 全てが規制され、全てが統御され、全てに神の配慮が行き届いているのです。(2巻 P172)

私がなぜあなたのように私のもとに導かれてきた方に特別の関心をもつかを説明いたしましょう。 (たとえ戦争の最中といえども)ものごとには偶然というものはないということです。 とくに私たちが携わっているこの仕事に関しては明確にそれが言えます。(2巻 P179)
1巻と2巻だけでも 「偶然はない」 についてこれだけのことが述べられています。
全巻だと相当な量になります。

私がシルバーバーチの霊訓を読むきっかけになったとも言える 「偶然はない」 という一つの真理ですが、ここにきて もう一度振り返って思いを巡らせてみました。

過去を遡って考えていくと、今まで自分が歩んできた道のすべてが一本の線で繋がります。
血管に動脈があって、それらから毛細血管が伸びて静脈に帰ること、大河にはいくつもの支流があって海に流れ込んでいる。
全てが繋がっている。

今まで偶然と思ってきたことは支流であり毛細血管であり、すべてが本流に流れ込んでいる。
人間一人一人が支流であって、それがたくさん集まって世界ができている、と。

こうして考えていくと、確かに偶然というものはないし、すべてが必然的ではないか。
霊的なことであるなら尚更偶然であるはずがない。
全てが意図されて起こっている。

こんなふうに考えるようになりました。
何年かたってもう一度思いを馳せたら、また違った理解が進むかもしれません。

2019-1-3 「大切なのは行い」

新年あけましておめでとうございます。
心機一転、頑張って行こうと決意を新たにしたところです。
ラベルはどうでもよいのです。
形式はどうでもよいのです。
口先だけの文句はどうでもよいのです。
大切なのは“行い”です。
つまり、各人の毎日の“生活”そのものです。

(第3巻 P71)
新年早々、少々手厳しい発言をしたいと思います。
某団体の人たちと話をしていて思ったことです。
シルバーバーチは「スピリチュアリズム」という名称はどうでもいい、とよく言っています。
ところが、某団体の人たちは、「私はスピリチュアリズムに一生を捧げる」と言われました。

どう思われますか?

言っている意味は分かります。
単純に言葉の違いだけだと思います。
「私はスピリチュアリズムの発展のために一生を捧げる」という意味だったのだと思うので、これはこれで良しとしましょう。

話は続きます。

「何を実践されていますか?」
と質問をしたところ、
「霊的真理を誰にでも話せるように、講義できるように話す練習をしています。」
「他には何を?」
「山登りをして身体を鍛えています。」

毎月のようにほぼ全員で登山に行っているというのです。
身体を鍛えるなら、別に山登りでなくてもいいんじゃないかと思うのは私だけでしょうか。
まあ、これも趣味のことなので良しとしましょう。

私が言いたいのは、次のことです。

某団体はシルバーバーチの霊訓を中心に学習を進めている、と言っています。
ところが、講義の練習をしている内容はシルバーバーチの霊訓の説明ではなく、この団体で出されているもので、霊的真理を説明していると言いながらも独自の哲学理論とでもいうべき内容に感じました。

まるで、聖書を学んでいると言いながら、そこ独自の冊子を学んでいるような団体と似ていると思いました。

その団体で行っている読書会も同じです。
「シルバーバーチ読書会」としながらも、バーチの内容よりも独自の冊子の学習会をしているのです。

それに、登山に行くぐらいなら、ボランティアに精を出した方が良いようにも思います。
「ボアランティアには行かないのですか?」
と訊いたところ、
「個人的にはいいけれど、団体のすべき事ではないのでやりません。」

山登りにはせっせと行くのに、ボランティアはする必要なない?
困っている人がいるなら助けるのが大切なのでは?

うーん、あれもこれも考えさせられてしまいました。

新年早々、辛辣な内容だったかしら。
失礼いたしました。
 


  

 













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