スピリチュアリズム

スピリチュアリズム

シルバーバーチを読みながら

 
2018-4-20 「時間というもの」

スピリチュアリズムの書籍を読んだことがある人なら 誰でも知っている真理の1つが、時間という概念は霊界にはない、ということがあげられると思います。

ある質問者が 「時間的な刻みはなくても時間の経過はあるのでしょう?」 と尋ねると、シルバーバーチは次のように述べました。
周りの出来事との関連によって成長と進化を意識していくのでして、時間が刻々と過ぎてゆくというのとは違います。
魂が成長し、それにつれて環境が変化していきます。
時間というのは出来事との関連における地上独自の尺度にすぎません。
あなたが無意識であれば時間は存在しません。
(5巻P48)
「無意識であれば時間は存在しません」
この一言でよくわかりました。

交通事故や病気などで長い間目覚めなかった人がある日突然目覚めた時、日時を聞くと驚きます。
自分はどれぐらい眠っていたのだろう。
そんなに長い間意識がなかったのかと。

なるほど、無意識でいる間は時間は存在しないというのはこういうことなんですね。
誰にでもあることだと思いますが、過去のことを思い出してそれに浸ると、気分はその時代に戻ります。
つまり、過去も現在になったわけです。
時間は永遠の現在です。
過去でもなく未来でもありません。
それがあなたの過去となり未来となるのは、その時間との関わり方によります。
(中略)
時間そのものには過去も未来も無いのです。
(第8巻P41)

(質問者)―地上で意識しているような時間は無いのでしょうか。
(SB)―ありません。地上の時間というのは昼と夜と四季を生じさせている地球の自転と公転によって支配されております。
私たちは地球の回転の影響は受けません。
したがって昼とか夜とか春夏秋冬の区別がありません。
時間は私たちにとっては存在しません。
強いて言えば “永遠の現在” の中に生きております。
(第10巻P100)

時間そのものには過去も未来もありません。
時間は永遠の現在の中に存在しています。
過去と未来はあなたと時間との係わり方一つによって生じているにすぎません。
(第10巻P101)
シルバーバーチのこうした言葉を読んで、こんなことも考えました。
時間というのはジグソーパズルと似ていると。

ジグソーパズルというのは、最初にパッケージを見て選んで始めますから、出来上がりは誰でもわかります。
そしてピースを1枚1枚探しながら組み立てていくわけですが、どこから組み立てるのか、縁からなのか、真ん中あたりの数枚を見つけて組み立てておいて その繋がりを増やしていくか、進め方は人によって違います。
でも、組み合わせたピースは過去のものであるけれど 現在見ているものだし、まだ組み合わせていない未来のピースも現在見ているものです。
その未来のピースから適切なのを選んで組み合わせていくのですから、やはり未来は現在です。

そう考えれば、確かに過去も未来もなく、すべて現在です。

このジグソーパズルからさらにあれこれ思いを馳せると、これって時間だけでなく、地上人生にも当てはめて考えられると思いました。

地上人生は すでに自分で選んだ青写真があって、誰もがそれに向かって生きているとシルバーバーチは言っています。

手元にあるたくさんのピースから繋がるものを探して、どんどん組み立てていくのが地上人生。

全てをジグソーパズルに当てはめて考えることはできないけれど、理解する助けにはなると思います。
そうやって考えていくと、永遠に続く霊的成長も当てはめて考えられます。

2018-4-8 「神との仲介役」

キリスト教系の宗教に入っておられる方とお話をすると、イエス様が神様と人間の仲介をしてくださっている、と言われます。
人間は未熟だからイエス様のとりなしが必要なんだとか。
以前から、これは本当なんだろうか、何か変だと思っていました。
善はみずから報酬をもたらし、悪と罪はみずから罰と断罪を受けると私は説くのです。
向上するのも堕落するのも本人の行為一つに掛かっているのです。
人生のあらゆる側面を神の摂理が支配しており、それをごまかすことも、それから逃れることもできません。
誰にもできません。

たとえ豪華な法衣をまとっていても、あるいは高貴な “上級聖職階” を授かっていても、神とあなたとの仲介役をできる人は1人もいないのです。(第7巻P49)
私たちは神の摂理に生かされていることを考えたら、自分の人生も身体も摂理によって生かされているのがよくわかります。

人生の中で起きる様々な良いこと悪いことも全て摂理の中で動かされているのですね。
自分が蒔いた善い種は善い実を結び、悪い種を蒔けば悪い実が生るのは当たり前のこと。
より良い人生にするのか不幸な人生にするのかはすべて自分次第。
そこから何か学ぶか、人のせいにしてやり過ごすのかも自分次第。
全ては摂理によって営まれているのがわかります。
これほど公平なことは他には見当たらないですね。

自分の身体を自分で動かしているようでも、実はすべて摂理に則った中で動くように設定されている。
血液が循環しているのも、呼吸をするのも、胃が消化するのも、腸が栄養を吸収するのも、傷が治るのも全て摂理あってこそ。
自分で意識しなくてもそのように動いてくれるようになっているのですから、本当にすごいことです。
そう考えたら、神と自分は一体なのだから 確かに仲介は要らない、と思います。

ただ祈る場合は、霊性を研ぎ澄まし、自分の波長を目一杯上げていかないと一体感は感じません。
たとえ一体感を感じなくても、祈りそのものは守護霊を通じて届けられると言われていますから、地上の人間の仲介は要りませんね。

2018-3-3 「極楽と地獄」

昔から、人は死ぬと閻魔様が行き先を決める、と言われてきました。
閻魔様がその人の生き様に応じて、お前は極楽へ、お前は地獄だ、などと言って振り分けるというものです。

こうした仏教による死後の世界をどれだけの日本人が信じてきたことでしょう。
悪いことをすると地獄に落ちる、善いことをすれば極楽に行ける、ということで人の道を外れた生き方をしないように教えたのでしょう。

しかし、いくら合理的であっても事実でないことは教えてはいけないと思います。

シルバーバーチはこのように説いています。
地上生活の総決算をする時が来た時、つまり地上に別れを告げて霊の世界へと移られると、誰がするというのでもなく、自家作用によって、自分で自分を裁くことになります。
その時の判決の基準は地上で何を考えたかでもなく、何を信じたかでもありません。
世の中のためにどれだけ自分を役立てたかということです。
私が説いているのは “人のために” という福音です。
人のために惜しみなく自分を役立てなさいと言っているのです。
そうするとあなたがこの世に存在したことによって世の中が豊かになるわけです。
簡単なことなのです。
改めて説くのもおかしいくらい当たり前のことなのです。
ですが、やはり真実です。
(第7巻P87)
自分のことは自分が一番よくわかっているはずなのですが、意外にも地上にいる間は自分のことがよくわかりません。
しかし、自分の中にある道義心、良心、善悪観は本当は自分の間違いをよく知っています。
それを利己性や悪意が自分の善意に蓋をして、自分の都合の良いように考えたり行動したりして他人の不利益になることをするわけです。

しかし、死んで霊だけになると、今まで蓋をしてきた道義心や良心、善悪観が前面に出て、それを基準にして自分で自分を裁くようになると言うのです。
地上にいる時は、悪いことは全て自分以外の人にあると責任転嫁して生きて来た人でも、自分が裁き手なら文句は言えません

これほど公正な裁き方があるでしょうか。
本当にすばらしい裁き方だと思います。

霊の世界の通貨は「人のためという利他愛」ですから、利他愛を実際にどれだけ実行したかどうかが死後の世界の行き先の決め手になります。

時々スピリチュアリストを自称している方に訊いてみたりします。
「人のために何を実践していますか?」
すると、多くの人の答えは献金であったり寄付であったり、金銭のことを言われます。
もちろん、それはそれでいいと思います。
ただし、多くの収入の中から払うより、少ない収入の中から払う方が価値があることを忘れてはいけないと思います。

献金や寄付も1回だけならできても、寄付を定期的に続けることはとても難しいと思います。
それに、自分の生活を圧迫するようになったりすると やめてしまうでしょう。
つまり自分が安全圏内にいるならできるけれど、少しでも不安が生じたら続けることができない人がほとんどなのです。

寄付以外に人の役に立つことはないのでしょうか。
シルバーバーチは何でもいい、と言っています。
悲しんでいる人を慰めてあげる、苦しんでいる人の気持ちを和らげてあげる、困っている人がいたら手伝ってあげる、など いくらでもあります。

しかし、誰かの役に立つことをするのは大切だとわかっていても、実践するのは案外難しいものです。
なぜかというと、人はすぐに損得で考えるからです。
それに、寄付と同じく、1度だけならできても 続くとなると根気が続かなくなったりします。

友人の悩みを聞いてあげることにしても、最初は興味本位で聞いてあげても、それが重なると疎ましく思って逃げることを考えたりします。
隣の老夫婦が買い物に行くのが大変だと聞くと、1度や2度は車に乗せて行くことはできても、それが毎週のことになると辟易としてくるのではないでしょうか。

つまり、人のために自分が役に立つことができるのは、自分の安全圏内なんですね。
それを越えてもなおできるとしたら、その時に初めて人の役に立つ人になった、といえるのだと思います。

2018-2-15 「人生最大の大損」

人は、死んで肉体は無くなっても霊は永遠に成長の道を歩み続ける。
私たちにとっては当たり前の真理ですが、たったこれだけを知らないために嘆き悲しみ、逃げるに逃げられない苦しい人生を送っている人が無数にいます。

人は肉体が無くなっても永遠に生き続ける、ということを確信を持って知ってさえいれば、たとえ愛する人が亡くなったとしても、見えないし触れることができない寂しさはあるにせよ、自分の人生を真っ暗にしてしまうほどの苦しみにはなりません。
むしろ、目には見えなくてもすぐ傍にいてくれると感じると、生前の時より身近に感じます。

先日、友人と臓器提供の話をしました。
自分の子供の心臓が悪くて、助かる方法はただ一つしかない、臓器移植しかないという場合はどう考えればいいのかと。

日本ではまだまだ子供の臓器移植は難しく、海外に頼らざるを得ないのが現状です。
自分の子供を虐待したり、殺したりする親がいる一方、愛する我が子の命を救いたいと願って奔走する親の行動には涙します。

その反面、生命は地上だけのもので、死ねばすべて無くなってしまうと思っているからこそ自分の命を削るようにしてまで奔走するのだと思うと、残念でなりません。

霊的無知であることは本当に悲しいことです。
海外での子供の臓器を調達するために、どれだけの子供が行方不明になっているのを知ったら、かなり強い葛藤が生じるのではないでしょうか。

薬に対する知識にしても、麻薬や覚せい剤がどういう悪影響を及ぼすのかを知っていれば、手を出すことはほとんどないと思います。
1回だけならいいんじゃないか、なんて安易な気持ちで始めて人生を棒に振ることもないと思います。
といっても、カルマも大きく関係していることでしょうから、何とも言えませんが。

地上生命の意義をちゃんと知っていれば、面白おかしく生きなければ損だ、なんて考えはおきないはずです。
たとえ そうした誘惑の思いが湧いたとしても、強いブレーキがかかります。
適当な知識ではなく、確信のある知識が必要だと思うのです。

永遠の生命に対して無知であることは、人生最大の大損。
知ることができて良かったと思う反面、それを伝えていかなければいけない義務が生じたことを痛感しています。

2018-2-2 「古い真理?」

かつて、一緒にシルバーバーチを読んでいた友人がいました。
ところがある日、その友人が突然言い出しました。

「シルバーバーチの霊訓て古いのよね。
だって、第二次世界大戦の頃に発表されたものなんだから。
最近は、いろいろな霊言集が出ているから、そっちの読書会に出てみようと思うの。」

そう言って、友人は離れて行きました。

シルバーバーチの真理が古いなんてことあるのかしら。
聖書だってニケーア会議のことはあるにせよ、2千年前に発表されたものなのに未だに多くの人たちの成長を促し 心の支えになっているんだから、古いとか新しいなんて関係ない。
大切なのはその真理が正しいかどうかだから、私はもう少しシルバーバーチの霊訓を読んで突き詰めていってみよう。

そう考えて、読み続けました。
そうしたら、こんな個所が出てきました。
本当に必要なのは単純で素朴な真理なのです。
新しい大真理ではなく、驚異的な啓示でもなく、新しい進捗でもありません。
その素朴な真理はいつの時代にも、いかなる国においても、必要性と理解力の程度に応じたものが授けられてきております。

(第2巻 P86)
今の私はというと、理屈として真理を納得できるだけでなく、体験して理解したい と考えるようになってきました。
聖書は間違っている箇所はあるけれど、良い書物だと思います。
自分の体験と一致するところがたくさんあります。
でも、イエスの弟子たちが霊界を理解できていなかったために、永遠の生命について全くと言っていいほど解かれていません。
したがって、聖書には地上的な教えは多いけれど、霊的真理はごくわずかになってしまいました。
イエスは霊的なことをたくさん説いていたのかもしれませんが、それを理解できる人がいなかったのは本当に残念です。

シルバーバーチが伝えてくれた霊的真理は、聖書の教えをはるかに超えた霊的事実がふんだんに含まれています。
地上人生だけの教えはほとんど入っていません。
ほぼ全てが永遠の成長に必要な真理ばかりです。

私が生きている間に、すべて体験して理解できるのかしら。
まず無理でしょうね。
向こうに行ってからもずっと学び続けることでしょう。

2018-1-22 「いかなる困難も」

シルバーバーチは常に、「苦しみは試金石」だと言っています。
順風満帆の時より、苦しみを乗り越えた時の方が成長すると。
そして、乗り越えられない困難はない、とも言っています。

でも世の中を見ていると、事業に失敗し、家族から見放され、身体を壊し、とうてい返せないと思えるほどの借金地獄にいて、そこから逃れるためには生命保険に頼るしかない、という人もいるかと思います。
中には考えてはいけないことを考え、自ら命を絶つ人もいます。

幸いにも、私の周りにはそれほどの人はいないのですが、ニュースや昔の日本の状況、北朝鮮の実態、難民の人たちの実態を垣間見たりすると、本当に乗り越えられないほどの苦難はないと言い切れるのだろうか。
そんなことを考えたことがありました。

もちろん、動機が大切ですから、そこに至るまでのいろいろな動機を考えた時、自業自得だなとか、カルマだと思えることは多々あります。
そう思うと、正直者がバカを見る世の中ではないなと安堵の思いもまた湧いてきます。

2巻を読んでいたらこんな個所がありました。
いかなる困難も、解決できないほど大きいものは決してありません。
取り除けないほど大きい障害物もありません。
私たち霊界の者からの援助があるからです。
人間の力だけではムリとみた時は別の援助があります。
人間として精一杯の努力をした上での話ですが・・・

(第2巻 P33)
苦しみの最中にいる人は往々にして視野が狭くなっていて、自分の苦しみで頭の中が一杯になります。
しかし、その苦しみの発端を探って行くと、そこに現れてくる動機は物欲や金銭欲、名誉欲、性欲などがあるように思います。
多くの人は、その欲を満たしたくて何かしらの行動を起こすわけです。
その動機に気が付かずに、今の苦しみだけに捉われていると苦しみからなかなか抜け出せないし、どんどん底なし沼に入り込んでいくように思います。

ただし、大きなカルマ(自分が生まれてくる前の自分がしでかしたことの報い)があったりすると、大変だなあと思います。
まさか原因が自分にあったなどとは思えないからです。

ところが、私の今までの経験というか、多くのスピリチュアリストを見てきて思うことは、霊的真理を受け入れて真剣に学び、その霊的真理に添った生活をしようとして謙虚な生き方に変えた人は、カルマが小さなもので終わる場合が少なくないように思います。
つまり、金銭的な苦労、出口のない困難がなくなるわけです。
なぜなら、霊的真理を学ぶことですべての困難の対処法がわかるからです。

その代わり、摂理に添えない自分、利他愛を実行できない自分、真理が深く理解できない自分、お祈りが上手くできない自分など、自分の不甲斐なさが次から次へと出て来て、苦しくて仕方がないようになります。
でも、視線を世の中に移してみると、生活するには何の支障もないわけです。

人間としてどんな努力をしたら良いかというと、まずは霊的真理を受け入れて、生命は地上だけの100年程度のものではないこと、自分という霊は永遠に成長し続ける旅人であること、神に愛されているからこそ永遠の旅路を生きていくことができること、などなど。
知識と行動は成長の両輪ですから、どちらか一つ長けていればいいということではなくて、両方努力してこそ霊界からの援助も受けられるのだと思います。
 


  

 













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