スピリチュアリズム

スピリチュアリズム

シルバーバーチを読みながら

2017-11-2 「困難が生じた時」

誰しもが、一生の内 1度や2度は大きな壁に激突します。
そのたびに、どっちに進むべきなのかを迷ったりすると思います。
霊的真理がわかれば、答えは簡単に出るのですが、真理を知らないと迷うばかりで答えが見いだせないだけでなく、良くない方向を選んでしまう場合も少なくありません。

先日、ある人から相談を受けました。
その人(Aさん)は妻帯者で、定職を持っていながら趣味を捨てきれなくて悩んでいました。
その趣味が単なる趣味なら問題はないのですが、実益も兼ねていて、グループを組んでやっているとのこと。

Aさんは才能がある人で、マネージメントからプロデュースまで幅広く活躍しているため、もしAさんが下りるとなると、必然的にそのグループは解散に追い込まれる可能性があります。
Aさんにとっては趣味であっても、それを定職にしたくて頑張っている人も数人いるとか。
もし自分が辞めれば、その人たちの夢は奪われ 収入の道もなくなるので、そんな無責任なことはできない、ということです。

それに、奥さんに反対されていることも悩みの1つでした。
奥さんが喜んで応援できることなら 問題はないと思います。
ところが、本職よりも趣味の方に力を入れているので、家庭を顧みないだけでなく、毎日睡眠不足でフラフラしながら会社に行くので、健康状態も悪くなってきているとのこと。
それに、ほとんど家にいることがないので、子供との触れ合いがないのも懸念していました。

問題はそれだけではないんです。
ほかにも色々ありました。

結局、家庭を取るか趣味の道を究めるか、それとも実績が確実に上がれば奥さんの反対もなくなるだろうから、それまで我慢してもらうか。

さて、どうしたものでしょう。
困難が生じた時は平静な受け身の心になるよう努力なさることです。 そうすれば、あなた自身の貯蔵庫から ― まだ十分には開発されていなくても ― 必要な回答が湧き出てきます。
きっと得られます。
われわれは みな進化の過程にある存在である以上、その時のあなたの発達程度いかんによっては十分なものが得られないことがあります。
が、その場合もまた慌てずに援助を待つことです。
こんどは背後霊が何とかしてくれます。
(第6巻 P55)
話をずっと聞いていたら、自分で答えを出してくれました。
家庭は一生守り続けていかなければいけないけれど、グループの人たちはみな大人だから、ちゃんと話せば自分たちで何とか切り抜けて行ってくれるだろう、と。

どうすべきかは、本当は自分で答えを持っていたんですね。
自分であれこれ話すことで 考えがまとまり、答えが出せたようです。

2017-10-06 「スピリチュアリズムを学び始めると」

スピリチュアリズムを学び始めた人に起こる現象があります。
もちろん全員ではありません。

熱しやすく冷めやすい人は、霊的真理を知って感動すると、一気にテンションが上がります。
ところが、“スピリチュアリズム” と “スピリチュアル” の区別がつかなくて、“スピリチュアル”と名が付くものなら何にでも興味を持ってしまうだけでなく、それを意気揚々と誰かれ構わず伝えようとする人がいるのです。

世の中には、スピリチュアル、いわゆるオカルトとか、パワースポットとか、パワーストーンなどに興味を示す人は多いけれど、霊的真理に反応する人は極めて少ないです。

真理を伝えたいという志は素晴らしいのですが、こんな自分でも受け入れられたのだから、他の人も受け入れるに違いない、と錯覚するようです。

それで熱を入れて話すのですが、受け入れるどころか、反応さえしない人がほとんどだとわかると、だんだんとテンションが下がり、大衆受けするパワー〇〇の方にどんどん寄って行ってしまうのです。

これは、真理がしっかり理解していないことにもよります。
私は、そうしたことが問題だと常々感じています。
私たちがいつも直面させられる問題が2つあります。
1つは惰眠をむさぼっている魂に目を覚まさせ、地上でなすべき仕事は地上で済ませるように指導すること。

もう1つは、目ざめてくれたのは良いとして、まずは自分自身の修養を始めなければならないのに、それを忘れて心霊的な活動に夢中になる人間を抑えることです。
(第6巻P91)
霊的真理を受け入れると、どんどん知りたくなって進んでいきます。
理解できる自分が嬉しいということもあるのかもしれません。
ところが、霊的真理の理解は一足飛びに深まるものではありません。
知識と実践の両輪を通して、少しずつ少しずつ深くなっていくものです。

霊的真理を受け入れたことだけでも素晴らしいことなのですから、それを念頭において、あせらずに今以上に実践し、実践を通して更に真理が理解できるように努めることが大切だと思います。

最近は、理解も成長も未熟なのに、すぐに読書会を開こうとする人が多すぎます。
深く理解できなければ、読書会を開いてもすぐに壁に当たるでしょうし、生半可な内容しか教えることができないのですから、浮ついた興味だけで読書会を開くのは控えた方が良いと思います。

もちろん、開いてみて挫折するのも経験の1つと考えれば、それはそれで良いかもしれませんが。

2017-09-30 「そんなことで悩んでいたの?」

誰でも悩みの1つや2つはあると思いますが、私も例に漏れず、大きな悩みを抱えていた時期がありました。

その時は、大好きな音楽は雑音になり、テレビは目障り、活字など全く目に入らなくなっていたほどでした。
だから、シルバーバーチも読めませんでした。

心が痛くて、何をしていても その悩みが私の頭と心を大きく占領して、本当に視野が狭くなっていました。

思い切って友人にその悩みを打ち明けると、
「そんなことで悩んでいたの?」
という返事。

え? そんなこと?
勇気をふり絞って悩みを打ち明けたのに、そんなこと・・・とは・・・
なぜわかってくれないの?
こんなに辛いのに、そんなこと・・・とは・・・酷くないですか?

大きく打ちひしがれました。
“泣きっ面に蜂”という感じです。
友人に裏切られた思いがして、寂しいというか、虚しいというか、涙がとめどもなく溢れ出ました。

少しばかり心の痛みが和らいだ頃、やっとシルバーバーチを開きました。
パッと開いて、開いたそのページだけ読んでみようと思って、本当に何気なく開いたのです。

目に飛び込んできたのは次の言葉でした。
ある人には何でもないことのように思えることが、なたには大変なことである場合があります。
反対に、ある人には大事な問題に思えることが、あなたには些細なことに思えることもあります。
(第2巻P71)
あまりにもタイムリーで、両肩を叩かれて喝を入れられたように感じました。

私にとっては大変なことだけれど、友人から見たら些細なことだったから「そんなこと」と言ったのかもしれません。
それとも、そんな小さなことで悩んでいるなんて、心も視野も狭くなっているからだよ、と言いたかったのかもしれません。

あの時 友人に裏切られたと思ったのは、彼女なら理解してくれるはず、と自分で勝手に決めつけていたことに他ならなかったことにも気付かされました。
気が付くと今度は、彼女の所為にしてしまった自分が恥ずかしくなりました。

今振り返ってみると、本当に小さなことで悩んでいてバカだったなア、と思います。
友人が言ったことは正しかった、と思いました。
でも、その時は大きなことだと感じていたんですよね。

そんなこともほぼ忘れた頃、近所の人と話していた時のことでです。
その人は家族の愚痴をこぼしました。
家族の愚痴って、あまり聞きたくないものです。
でも、次から次へと愚痴が出てくるとさすがに嫌気がさして、つい言ってしまいました。

「大したことじゃないから、すぐに収まるわよ」と。

そうしたら、その人の目から大粒の涙が溢れ出しました。
その時ハッと気付かされました。
私は「大したことじゃない」と言ってしまったんです。
その人の愚痴を小さい悩みだと、勝手に決めつけていたんですね。

かつて友人に感じた裏切りを、私はこの人にやってしまっていたんです。

苦しみとか悩みの大きさの感じ方は、人によって違うので比べてはいけない。
勝手に大小を決めてはいけない。
というのが身に沁みてわからせてもらえた体験でした。

2017-09-21 「たった1人であっても」

真理を知った人ならだれでもそうだと思うのですが、私もシルバーバーチを読み始めてしばらくすると、自分はスピリチュアリストとして何をしたらいいんだろう、と思うようになりました。

シルバーバーチは折に触れ 次のような言葉を発しています。
少しだけ抜粋してみると、
彼らは本当に目覚めてはいないのです。
霊的実相については死んだ人間も同然です。
そういう人たちの中のたった1人でもよろしい、その魂の琴線に触れ、小さく燻る残り火に息を吹きかけて炎と燃え上がらせることができたら、それに勝る行為はありません。
(第1巻P106)

暗闇にいる人に光を見出させてあげることが出来れば、それがたった1人であっても、それだけでその人の人生は価値があったことになります。
ここに集まった私たちは、その “たった1人であっても” を “大勢の人々” に置きかえることができます。
(第2巻P38) 
たった1人・・・数字的には簡単そうでも、実はこれってすごく難しいことだと思うのです。
真理を伝えること自体 難しいことなのに、その人に光を見出させてあげるなんて、難しすぎます。

でも、やらなければいけません。
たとえば、真理を伝えるために シルバーバーチの言葉をコピーして配ってもいいし、どこかの宗教がやっているように、1軒1軒ドアをノックしたり、街頭に立ってスピーカーで話すことも良いと思います。

でも これって下手な鉄砲も数を打てば当たる的な感じがします。

読書会を開くのも良いと思いますが、実は、読書会に参加する人はすでに真理に目覚めた人なので、シルバーバーチが言っている “たった1人” には当たらないように思います。
それに、読書会を開くには、それだけの経験と霊格、シルバーバーチの読みこなしが要求されると思いますから、生半可にできることではありません。
たった1人でいいのです。
全てが陰気で暗く佗しく感じられるこの地上において元気づけてあげることができれば、それだけであなたの人生は価値があったことになります。
そして1人を2人に、2人を3人としていくことができるのです。
(第1巻P31)

たった1個の魂でも目覚めさせれば、たった1人でも暗闇から光明へ導くことができれば、たった1人でも弱った人に元気を与え、悩める人に慰めを与えることができれば、それだけで私たちは立派な仕事を成し遂げたことになります。(第4巻P36)
色々考えてみて私にできると思ったのは、慰めること、理解すること、話を聞いてあげること、元気を分けてあげること といった 小さな利他愛の積み重ねです。

そうした積み重ねが ある人の中で飽和状態になったら、その時に光を見出してくれるのかもしれません。

よくよく考えてみれば、自分の利他愛がどんな結果をもたらすのかということを考える必要はないと思うのです。
結果の良し悪しを自分で判断するのは自意識の問題であるし、傲慢なことですから。
見返りも結果もいっさい期待せずに、ただ愛するだけ。
それに徹していきたいと思います。
やってきたことの結果を知らされるのは、あちらの世界に行ってからで十分ですから。

2017-08-24 「心霊治療(スピリチュアル・ヒーリング)」

一口に心霊治療と言っても、いろいろな段階があるというか、グループが違うというか、そんな風のようです。
霊医が手伝っている治療もあれば、施術師の力だけで行うものもあるようです。
その違いは携わっている霊以外はわからないし、施術した人であっても明確な判断がつかないようです。

それと、心霊治療というと魔法のように一瞬で病気が治る、と思っている人も多いようですが、残念ながらすべてがそんなに簡単に行くものではないようです。
世の中の人は、病気が治せるのは施術師の能力の違いだと思っている人が多いようですけど、スピリチュアル・ヒーリングに関しては施術師の能力ではなくて、施術師の霊格の違いによるようです。
つまり、霊格が高ければ、それに見合った霊医が力を貸してくれるし、霊格が低ければそれ相応、ということなのでしょう。

私たちが心霊治療という時には、霊界の医者が関わっている治療のことを指します。
場合によっては一瞬のうちに治る場合もあるようですが、目的は病気を治すことではなくて、霊的な覚醒に結びつかなかったら たとえ病気が治っても治療は失敗 という判断が下されるようです。
なぜかというと、目的が違うからです。

ほとんどの治療は病気を治すことを目的としているのに対して、心霊治療(スピリチュアル・ヒーリング)は魂の覚醒を目的としています。
治療はあくまでもそれに至るための “きっかけ” なんですね。

ただ、心霊治療に限らず、サイキック治療にしても、気功にしても、そのメカニズムはとても複雑なようです。
そのメカニズムは難しすぎて、今の私にはまだまだ理解不能なエリアです。

世界的に有名なヒーラーにはハリー・エドワーズ(1893―1976)がいました。
確かイギリス人だったと思います。
ところが、有名なヒーラーであっても 治せない患者がいたようです。

治る、治らない、の差は何なのでしょう。
「治療の成功 不成功は 魂の進化という要素によって支配されている」
「未発達の魂は心霊治療によって治すことができない」
(第6巻P18)
治るかどうかは、患者自身の魂の発達度合いも大きく関係しているようです。
多くの人は、病気が治ったかどうかで治療の良し悪しを判断しますが、スピリチュアル・ヒーリングは永遠につながる要素を含んでいるので、単純に治ったかどうかでは判断しないということのようです。

2017-08-18 「スピリチュアリストが利己主義?」

何人かのスピリチュアリストと知合いですが、時々気になることがあります。
それは、霊的真理を基準にして全てを測ること。
霊的真理を基準に世の中を見渡して判断するのは大切だと思う反面、果たしてそれだけでいいのだろうか、という思いも湧きあがります。

シルバーバーチは次のように言っています。
精神的なもの、霊的なものばかりの瞑想的生活から生まれる内的満足のみを求め、この世の人間としての責務を疎かにする人間は、一種の利己主義者です。(第2巻P34)
これはたぶん、聖職者のことを指しているのだと思います。
でも、聖職者に限らず、スピリチュアリストの中にも これに似たような人がいます。
長年スピリチュアリズムに携わっている人とお話しさせていただくと、妙な感覚になることがあります。

妙な感覚というのは、その人はいろいろと教えてくれるのですが、私に伝わってくるのは「あなたも他のスピリチュアリストもまだまだ知らないことだらけ。でも私は誰よりも知っているのよ」というものです。

そして、「あの人はここを直せばもっと成長するのに まだまだね」とか、「あの人は真理を知っているのに理解していない」とか、「あの人のレベルはこの辺ね」、最後には「あなたは〜が欠けている」みたいに言うのです。
これってどうなのでしょう。
利己主義、というより傲慢なのでは・・・

内心、「そうね、あなたはレベルが高い人だものね」とつい思ってしまうのです。
そう思う私って素直じゃないし、傲慢なスピリチュアリストなのかしら・・・

2017-08-11 「多くを与える者ほど多くを授かる」

霊の通貨は「利他愛」だということは、スピリチュアリストなら誰でも知っていることだし、実践していることだと思います。
ところが、世の中には、他人のために無償で何かをするのは損すること、と考える人が少なくないようです。
そう思う人はまだ魂が開花していないのかもしれません。
霊的な仕事に携わる人たち、己の霊的才能を真理探究のために捧げる霊媒は、自己を滅却することによって 実は自分が救われていることを知ることでしょう。
なぜなら、その人たちは、人間はかくあるべきという摂理に則った行為をしているからです。
それは取り引きだの報酬だのといった類のものではなく、多くを与える者ほど多くを授かるという因果律の働きの結果に他なりません。
(第2巻P24)
ここには霊媒に向けて言われているけれど、誰にでも当てはまる内容だと思います。
そして、体験した人ならだれでも納得のいく言葉です。
自分が助けられたので、その分 誰かの役に立つことをすると、更に自分が何かを多く得ているということに気が付く、ということです。
良い動機には良い結果が出るというのは、本当に素晴らしいことだと、いつも感嘆しています。
ただし、良い結果というのは物質的なことではなくて、心がダイレクトに感じることなので、説明のしようがないのが残念です。

2017-08-04 「神とは」

神とはどういう存在なのか、というのは宗教によって説明が全部違います。
シルバーバーチにはなんて書いてあるかというと、先回書いた通りですが、別の表現を見つけましたので書いておきたいと思います。
この大宇宙を作り上げたエネルギーであり、自然界のすみずみまで流れているエネルギーであり・・・(第1巻 P30)
宗教のほとんどが、神は人間を最大限に大きくしたような存在のように説明しています。
とても寛容である反面、怒ったり、嫉妬したりする神というのは、すごく違和感があったのですが、シルバーバーチが説明してくれる「神とは」というのが一番しっくりきました。
そう、生命であり、エネルギーなんですよね。
納得です。

2017-07-27 「神は摂理であり、生命である」

まず最初に書いておきたいのが「神」とは何かです。
シルバーバーチを読む前は、ご多分に漏れず、神とは神社に居て、願い事をする対象だと思っていました。 でも、シルバーバーチの霊訓に書いてあるのは全然違っていました。

シルバーバーチは「神」のことを「大霊」と言っています。
最初はどうしてそういう言い方をするのかわからなかったけれど、最近になってやっと、大霊という意味、神という存在が少しずつわかってきたように思います。
神はあなた方一人ひとりであると同時に、あなた方一人ひとりが神なのです。
ただ規模が小さく、胚芽的存在にすぎず、言ってみれば神のミニチュアです。
あなた方は神の縮図であり、その拡大が神と言うわけです。
(第1巻 P80)
神とは法則であり、その背後に働く精神であり、森羅万象の無数の顕現を支える力です。
それは生命そのものであり、生命を構成する根源的要素です。

(第1巻P154)
神はどこか遠く離れた近づき難いところにおられるのではありません。
実にあなた方一人ひとりの中にあり、同時にあなた方は神の中に居るのです。
(第1巻 P191)
神とは宇宙の自然法則です。
物的世界と霊的世界の区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。
(第5巻 P140)
自分も神であることを自覚なさることです。
そうすれば神の御国はほかならぬ自分の魂の中にあることを悟られるはずです。
(第6巻 P198)
人間は神そのものではないけれど、生命がある、霊であるということが「神」なのだとわかりました。
言い換えれば、人間とか動物とか、植物とか、生命のある存在は個々が小さな霊であり、神は大きな霊、つまり「大霊」なのだと。

私という1人の人間がいる。
髪の毛1本1本、血液の1滴1滴、爪の先端に至るまで、全てが私の一部ではあるけれど、私そのものではない。
もし私そのものであるなら、髪が伸びることも爪が伸びることも、血液が体中をかけ巡ることもコントロールできるはず。
でも、どれ一つできない。
手を動かしたり、足を動かしたり、食べたり、見たり、考えたりすることはできるけれど、そうしたこと以外はどれ一つとして自分の思い通りにならない。

病気が治ること、傷が治ること、心臓が動いていること、どれもこれも自動的というか、私の意志など全く無視されて動いている。
そういうシステムがすでに出来上がっている。
つまり、私という存在のほとんどは摂理によって生かされている、ということになる。

そう考えていくと、私そのものと言えるのは「私の心」であって、私の肉体は摂理によって生かされ、地上で私を表現してくれる存在とも言える。

私という1人の人間は、肉体というツールを使って様々な体験をし、考え、少しずつ成長していく。
その成長していく「霊」が私そのものなのではないかと思うのです。

自分が手を動かす、その手は生命があるからこそ動くことができる。
神が摂理であり、生命であるのなら、その摂理の中で生かされている私は小さな「神の分霊」とも言える。
つまり、私という1個の霊が摂理であり法則である神と共存しているのだと。
神が共存してくださるからこそ、何も恐れることはないし、様々な体験を通して成長できるのだと思い至りました。

そう思うと、散歩に行ったりすると、川の中にいる魚も、生えている草も、飛んでいる鳥も、小さな虫も、すべて法則によって生かされている。
つまり存在している全てが小さな神の集まりなのだ、と感無量の思いをもって最近は見られるようになりました。

まだまだ、「自分も神である」という境地には至っていないけれど、いつかそういう自覚ができるようになるといいなと思っています。


  

 













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